〒108-0014 東京都港区芝5丁目26番20号 建築会館4階
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コミュニケーションは難しい。もっとも、難しい原因は分かっている。前提となる知識の習得状態が人それぞれ異なっているため、相手が知らない知識を前提として説明しても相手は理解することができず、相手も知っている知識から順を追って説明しなければ、相手は理解できないからである。
このことを図で表すのは、状態遷移図をイメージするのが分かりやすい。状態遷移図はITの用語であるが、「状態遷移図」で検索すれば、おおまかなイメージを持つことができると思われる。
おおまかなイメージとしては、人の状態が与えられた刺激(情報)の内容とその刺激(情報)が与えられた順番・タイミングに応じて状態変化(遷移)していくことがイメージできれば十分である。同じ情報を与えたとしても、与えた順番・タイミングによって、その後の状態(理解度)が違うというのが重要な点である。
もちろん、初期状態は人により異なるし、同じ刺激(情報)を与えても状態がどのように変化(遷移)するかも人による。それゆえ、試行錯誤を経ながら、最終的に理解した状態に到達できるように教える順番を工夫していくことになる。
状態遷移図の分かりやすい説明としては、アナリティクス沖縄のスーパーマリオの状態遷移図があった。
https://analytics-okinawa.jp/database/2143/
スーパーマリオ(状態)やファイアマリオ(状態)がスーパーキノコを取っても(刺激)、状態が変化しないということが重要である。
もっとも、スーパーマリオの状態遷移図が分かりやすいと思うのも、スーパーマリオというTVゲームの知識の習得が事前にあるからである。
状態遷移コミュニケーションを行うために第一に大事なことは、相手の状態を理解することである。日常的な会話でも相手の反応を見ながら話す内容を変えることはしばしば行われると思われるが、教育においては、教わる側に理解してもらわなければ、学習効果が期待できないため、教える側が教わる側の状態を理解することは、極めて重要である。
教えようとしている知識の前提となる知識を知っているか、それを理解しているかなどは、相手の状態を理解するための基本的な確認事項となる。授業ではしばしば教師は学生の知識を確認するような質問をするが、学生の学習効果を上げるためには、どこから教えるべきかを検討するために質問しているのである。決して知らないことを非難するために質問しているわけではない。仮に学生が知らないこと(不勉強)を非難するために質問するような教師がいるとしたら、そのような教師に教わりたくないというのが普通の感覚ではなかろうか。その教師がいかにその分野において優れた知識を持っていたとしても、そのような目的で学生に質問をしているのだとしたら、人に物事を教えることには向かないとしか言いようがない。
教えてくれる相手がいて、その人が状態遷移コミュニケーションの構造を理解していれば、知識の習得は早いのであるが、往々にしてそのような教えてくれる相手がいないことが多い。また、目指すべき状態に達する以前は、目指すべき状態も抽象的にしか認識しえず、目標も抽象的になりがちである。例えば、賢明な判断力(思慮、phronesis)を身に付けたいなどといった抽象的な目標などになってしまう。
そのような状態においても、情報という刺激を得ることは、状態が良い方に遷移する可能性があり、そのこと自体有意義であると思える。それゆえ、情報という刺激を得、知識を獲得するための遊覧活動(読書、ネット検索など)をすることもある。もっとも、物事を一定の観点から自ら体系立てて整理する能力がない段階においては、中立的かつ確からしい知識を獲得することを優先すべきであろう。
高校までの学習は、基本的に科目ごとの一定の観点から一応、体系付けられた中立的かつ確からしいと思われる情報が多い。逆に大学以降の学習は、物事を自ら体系立てて整理する能力がない人が情報を得ると、その人自身にとっても、周りにとっても有害となる情報も多い。当然ながら世の中に出回る情報は、大学以降の学習の内容の方が多いのであるが、知識を獲得するための遊覧を行う際には、自分がどの程度、中立的かつ確からしい知識を得ており、新しい知識が中立的かつ確からしい知識と矛盾しないかを吟味する必要がある。
なお、内容が中立的かつ確からしい知識と矛盾し、かつ、出所が怪しい情報は、信用しない人の割合の方が圧倒的に割合としては大きいのであるが、割合としては小さいとしても人数としてはそれなりの人数の人が、内容が中立的かつ確からしい知識と矛盾し、かつ、出所が怪しい情報を信用していることが、現代においては可視化されている。いわゆるフィルターバブルに陥っているのはそのような状態であるといえる。フィルターバブルに陥らないためには、内容が中立的かつ確からしい知識を偶発的に得る機会は重要である。
相手を説得したい場合、一般には、感情的説得(相手の感情に訴えかける)、利益的説得(相手の利益に訴えかける)、論理的説得(相手の理性に訴えかける)の大きく3つの説得に分けられると考えられる。
交渉などでは、感情的説得や利益的説得が大きな意味を持つことも多いが、感情や利益ではなく、一般的な正しさ、妥当性に基づいて説得したいとなれば、論理的説得を行うということになる。
論理的説得は、数学の証明のように正しいことを論理的に説明すれば十分なのではなく、相手の疑問、意見を聴いたり、想定しながら、それに答えた上で、相手に納得してもらえるように説明することが必要となる。
ここでいう論理的であるというのは、正しい前提を組み合わせれば、結論は自動的に導かれるということであるが、相手の疑問、意見は、結論を導くために組み合わせた前提のいずれかについて正しいと思えないという疑問、意見であることが多い。
そのような場合には、なぜ正しいと思えないのかという理由を確認しつつ、相手も正しいと考えている前提まで遡って、疑問のある前提について、正しいことが共有されている前提から導き出せることを論理的順番に従って、説明することになる。
なお、説得における前提の正しさは往々にして蓋然的に正しさに過ぎず、証明というよりも弁証ということになる。
「数学者が説得的な議論を行うのを許容するのは、弁論家に厳格な論証を求めるのと同様の誤りだと思えるからである。」(神崎繁訳「ニコマコス倫理学」『アリストテレス全集15』岩波書店、2014年、22頁)と古代ギリシアから言われるとおり、弁証の前提の正しさは数学のような必然性ではなく、社会一般の認識における蓋然性で十分としておくことになる。ときとして、社会一般の認識にはパラダイム・シフトが起こることもある。
共有されている蓋然的な正しさを持つ前提は、一般に「通念」と呼ばれる(アリストテレス『弁論術』戸塚七郎訳、岩波文庫、405頁)。「社会通念」(社会における通念)という概念は、判決文にもよく出てくる。
通念は一般的に正しいとされているものの見方、考え方であるため、説得推論のためには、そこまで前提を遡ることがある。
全ての人がそれを正しいと信じているとはいえないかもしれないが、8割がた以上の人が信じていると考えられているものは、社会通念と呼んでもよいと思われる。また、法的判断の事実認定においても、8割がた以上の人が、ある具体的事実が、ある抽象的事実類型に該当する(当てはまる)と考えるのであれば、その具体的事実は、その抽象的事実に社会通念上、該当する(当てはまる)といってもよいであろう。
もっとも、法律家でも社会通念をマジックワードとして、意味も分からず使っているとしか思えない例も結構ある。すなわち、社会通念として存在するかどうかが疑わしいものを「社会通念によればこうである」など説明し、自己に言明に説得力がないにもかかわらず、説得のために存在しない社会通念を持ち出して利用しようとしているのではないかと思われる例である。そのような社会通念の用い方は、典型的な「見せかけの説得推論」(アリストテレス『弁論術』戸塚七郎訳、岩波文庫、286頁)であり、そのようなことを行う法律家は、その能力(法的説得能力)又は人格(誠実に法的説得を行う姿勢)のいずれか又は両方が欠如しているということになる。
監査においては、統制環境を把握することが重要である。ここで、統制環境を把握するには、その社内の人々の統制に係る意識が重要である。そうすると、統制環境は統制意識であるともいえる。意識が環境といえるのは、そこにいる社内で関係する人々が多数おり、ある人の意識が他の人々の意識にも相互に影響を与え、独立した意識として存在するわけではなく、自分の外部の意識が環境となるからである。
社会通念を考察する際にも、自分の意識(観念)を通じて外部の意識(観念)を環境(社会)として存在する通念の検討をすることになる。
内部統制では、統制環境を前提として、統制活動を行う。その主たるものとしては、統制に係る方針や手続、制度の整備、運用である。
方針や手続、制度の整備が統制環境の影響を受けるとともに、方針や手続、制度に則った実際の運用についても統制環境の影響を受ける。
経済思想(思考習慣)も経済理論(経済政策)に影響を及ぼす。
類型(カテゴリー)は、古代ギリシア語「カテーゴレイスタイ」が元となる概念であり、カテーゴレイスタイは、「もともと責めを負わせるといった意味で、法廷用語として使用された」(中畑正志訳「カテゴリー論」『アリストテレス全集1』、岩波書店、17頁)。なお、同書では、「述定される」と訳されている。「アリストテレスは、人間である。」という文章は、主題(基に措定されたもの)であるアリストテレスは人間の類型に述定され(分類し、位置付けられ)ている。
そうすると、刑法の構成要件を違法有責行為類型と考えるのは、まさに原義としてのカテゴリーということになる。
計画は、一定の将来において特定の結果(目的)を実現するために、現在からその将来に至るまでの行為(手段)の実行を予定することである。そのため、目的を実現したいとき、計画を立てるということはよくあることである。
目的が抽象的な場合には、その達成が認識できないため、目的達成の指標として目標を設定することも多い。そのため、計画は、多くの場合、目標を実現するための手段とその手段の実行の予定を定めたものとなる。もっとも、学習の初期段階では、目標を実現するための手段が分からないことも多い。そこで、資格試験の合格などを目標とする場合には、目標を既に実現した合格者に勉強方法を聞くこともある。しかし、状態遷移コミュニケーションの考え方によれば、状態遷移図は人それぞれであり、また、学習の順番とタイミングも重要であるから、合格者に勉強方法を聞いてそのとおりに勉強しても、必ずしも合格するとは限らない。
法律学を学んだり、教えたりしている経験からすれば、日本語で書かれていたとしても、その意味を理解するには、その学問の暗黙の前提となっている枠組みを理解していなければならず、暗黙の前提を理解できない人は、暗記に頼りがちであると感じる。暗黙の前提となっている枠組みが理解できれば、おそらく暗記することは苦にならない(枠組みに基づいて整理すればよい)のであるが、暗黙の前提となっている枠組みを理解するには、その説明を読むのみならず、ある種の帰納的な経験が必要となる。
状態遷移図がイメージできない場合には、基本的な説明に基づいて、個別事案の整理することが学習の近道である。
計画と目標においては、上記のような学習計画の検討をすることもあるが、経済活動においては、ファイナンシャル・プランニングやキャッシュ・フローの最適化計画の検討もある。企業向けの検討もあれば、相続・事業承継を含めた個人のキャッシュ・フローの検討もある。
減価償却費という概念の「発明」が、収支(収入・支出)計算から、損益(収益・費用(損失))計算へと変化をもたらしたといわれる。もっとも損益計算が中心となったとしても、投資のリスクから解放される部分としての収支(キャッシュ・フロー)の計画は、管理会計の分野で重要な意味を持つ。「すべての費用及び収益は、その支出及び収入に基づいて計上」(企業会計原則第二損益計算書原則)するのである。
キャッシュ・フロー計算書は過去の結果であるが、キャッシュ・フロー計画は、将来の(一定期間の)予測に基づく計画である。この場合においては、貨幣価値の変動予測を伴わない純粋な収支計画と貨幣価値の変動予測を伴う現在価値・将来価値(事業価値測定)の関係の整理(と予測)が必要となる。
目標は目的達成の指標として機能するが、何かを実現したいと考える際には、目的、手段、副作用の3要素で考えることが基本である。
目的は、各自の価値観や動機による。また、時間の長短、規模の大小などに応じて様々な段階のものが想定できる。価値観や動機が生じた背景を考察する場合もある。なお、人間(人生)の究極的な目的を「善」(「人間というものの(最高)善」(ト・アントローピノン・アガトン))であると考えれば、それ以外の目的は、「善」という目的のための過程であるともいえる。
手段は、目的を実現するために適合していることが必須である。また、有効性(目的達成の程度)及び効率性(目的達成にかかる費用対効果)が高い手段が望ましく、価値中立的な合理性により検討することになる。
目的、手段の関係は、よく聞くと思われるが、副作用についての検討がもっとも重要である。ここでいう副作用とは、本人にとっては、時間や金銭などの消費やコストを含むが、他人や社会に対しては、目的の実現以外に生じる影響である。手段は副作用によってもその是非が検討されなければならない。
外部不経済などの副作用は、法による規制を手段として、その発生を防ぐという目的を実現しようとしているということも、目的、手段、副作用の一つの関係性である。
目的は手段を正当化せず、目的から見込まれる利益と副作用として見込まれる不利益との比較衡量が手段を正当化する可能性がある。
規範的経済学を排除した実証主義的経済学においては、人間は目的に従って合理的に行動するはずであるから自生的な秩序が自ずから達成されるため法による規制をすべきではないという誤った前提(思想)があるように思われる。
限定合理性の考え以前に、目的は手段を正当化しないこと、目的と手段の適合性は別の問題であること、現に事実が存在するということは何らその事実を正当化するものではないことを理解する必要がある。そもそも経済学の対象とする事実は、人間の社会的活動により共通了解として人為的に作られた社会的実体としての事実であり、物理的(自然的)事実ではないため、その社会的実体の存在意義自体(正当性)を考察する必要もある。
規制を撤廃するような政策変更においては、たとえ全体としてはプラスだとしてもそれによりマイナスとなる個人がいる以上、補償原理に基づいて実際に法に基づく補償がなければ、正当化されるものではない。
法は、社会において、副作用としての負の効用(価値基準に従って不当であると判断される内部不経済及び外部不経済)を防ぐことを目的とする手段である。そのための手段として自由を制限することがある。法規範による自由の制限は規制と呼ばれる。
法令の条文は、制限の手段を定めたものが多く、法令の始めには目的規定が定められていることが多いものの、概括的抽象的であり、条文で定めた規制が、概括的抽象的な目的を達成するために、どのような、より個別具体的な目的を有するかは、自分で考えてみなければ分からないことが多い。
自分でその条文の目的を考えるための方法は、原則と例外(本文とただし書)を考えることが基本である。原則の制限により目的の多くは達せられるが、例外が必要とされているのは、原則では達せられない場合があったり、制限が過剰・不要な場合があったりするからである。
当然のことながら、法令の目的規定と整合していることも必要であるが、概括的抽象的な目的規定とは、通常、整合的な説明ができる。
法体系は、何を優先するか、どちらを優先するかといった価値基準の体系であるとともに、その価値基準を実現するための手段の体系であるということができる。
法は価値基準の体系であるが、価値とは、「他であり得る」もの、すなわち、選択、判断の余地があるものである。それゆえ、人により様々な観点があり、その観点に応じた価値観が生ずる。価値観が他であり得る以上、真偽を判断することはできず、異なる価値観ともどれだけ整合しているかを判断する事しかできない。
他方、事実は「他であり得ない」ものである。したがって、事実は、真偽を判断することができる。
事実は、「他であり得ない」ものであるが、事実「認識」は「他であり得る」。
事実「認識」は、事実を単に知覚することではなく、事実を「ある観点から」整理、識別するものだからである。事実のうち、その観点から必要なものだけが認識され、必要のないものは捨象される 。
観点が他であり得るものである以上、事実「認識」も他であり得る。
他であり得ないものへの理性(悟性)は知恵(ソフィア)であり、他であり得るものへの理性(選択、判断)は思慮(プロネーシス)である。
視点はある特定の立場から物事を見ることであり、観点はある特定の基準から物事を整理、識別することである。着眼点は、ある視点、ある観点から物事を見る際に特定の対象に注目することである。
視点は他人の立場が存在することを前提とするものであるが、観点は必ずしも他人の立場を前提とせず、自分と世界との間の関係性の整理の仕方を選択することである。
「見方を変える」というのは視点を変えることも観点を変えることも着眼点を変えることもある。
「見方を変える」技術は、他であり得ない一つの事実(世界)を、他であり得る多様性のある世界観を通じて見るための技術でもある。
ミュルダールは社会科学において価値前提を明示することが重要であることを指摘したが、必ずしも価値前提が明示されている文章は多くない。およそいかなる文章も表現者(一人称)の価値前提となる価値観から免れることができないため、その表現は事実そのものではなく事実認識であるから、読む側において事実と観点に分解(観点分解)をすることが必要となる。
観点分解をすることは技術であるが、様々な本を読んだり、自分で考えたりすることで確からしい事実や想定できる観点の手数が増え、技術の精度が高まることになる。
問題解決の基本として、目的に適合する可能性がありそうな複数の観点を可能性が高そうな順に選択し、解決までの過程が整合的であることをシミュレーションすることがある。将棋や囲碁などの戦略ゲームはルールの観点が固定されている限定的なものであるが、現実の問題解決にはルールの観点自体も選択可能な場合がある。
観点の手数を増やすことやその観点によるシミュレーションの速度と精度を高めるには、読書や経験、自分で考えるということを習慣づけ、それらを繰り返すしかない。
知識を教える側も教わる側もその知識が正しいかどうかをどのようにすれば検証できるかを考えることは極めて大事である。
検証するということは批判するということではない。その前提が正しいかどうかを判断するための手法について自分自身で調べたり、考えたりすることである。Why?を考えるのではなくHow to~?を考えるのである。そして、調べたり、考えたりした検証するための手法に則って前提が正しいかどうかを検証するということである。当然ながら検証するための手法自体も検証の対象となり得る。
アルヴィン・ゴールドマンは、信念の形成プロセスが信頼できるものではなければならないとする(信頼性主義)が、前提を検証するための手法が分からない場合には、その人の前提(信念)がどのように形成されたのかを事後的に追体験するという作業も一定程度、有効であると思われる。これは、結局のところ、その人の観念連合の構築過程を追体験するということにもなり得る。
検証することは時間と労力が必要であり、その点をもってしてもフェイクニュースなどは、人の時間と労力を費やさせる極めて外部不経済なものである。フェイクニュースとまではいえなくても、不確かな情報を拡散することで他人に時間と労力の投下を強いることによる外部不経済は、現代ではますます深刻な問題となっている。
検証を経ていないことを前提とした説明は仮説と呼ばれる場合もあるが、仮説の中には論理的に検証不能な仮説もある。すなわち、仮説が正しいかどうかを判断するための手法が現実に存在しない仮説である。そのような仮説は基本的には無意味であり、前提とすることはできないが、論理的に検証不能であることが直ちに明らかではない場合には、論理的に検証不能であることを検証することに意味がある場合もある。
検証不能な仮説の典型例としては、アンチノミー(二律背反)がある。
なお、検証不能な仮説自体を思い付くことは極めて容易であり、その多くは意味がないのであるが、しばしば、自分の思い付いた検証不能な仮説が意味がある仮説であると考えがちな人も多く、自分の思い付きの素晴らしさを認めてもらおうと(他人の目から見てみれば極めて凡庸な)無意味な議論を起こそうとすることがある。
そもそも仮説というのは、単なる思い付きでは意味がなく、その仮説が前提とする仮定を導入することで、より多くの事柄が、より少なく、かつ、明確な仮定で説明できるようになるということが必要である(いわゆるオッカムのカミソリ。思考経済の法則)。
コミュニケーションには前提を共有することが必要であり、前提は検証してある程度の確からしさを備える必要がある。しかし、全ての前提を自分自身だけで検証することは不可能であり、そのようなことをしていては、いつまで経ってもコミュニケーションは始まらない。そこで、他人による検証をもって、自分自身の検証に代えることになる。
他人の検証を利用する場合には、その検証が実行可能なものであるか、その検証によりどの程度確からしさがあるといえるかなどを検討することになる。実行可能な検証が容易に思いつき、かつ、その検証結果とされるものが予想どおりであれば、誰かが検証を実行(実験)したことがあるだろうとして、疑うことは難しく、かつ、疑う必要はあまりないが、たまに例外もあり得るため注意が必要である。
前提が正しいかどうかを検証し、正しいと判断したとしても、正しいと判断した2つの前提が相互に矛盾する場合もある。それはどちらかの検証が間違っている場合もあれば、両方の検証が間違っている場合もある。それも一つの経験であり、検証の手法自体を検証する契機となり得るが、より望ましいのは、相互に矛盾すると思われた前提同士を矛盾なく統一的に正しいと説明できるより高い次元での前提を発見することである。
学問は、そのような弁証法的な検証を経て、発展していると考えられる。そうすると、弁証法的な思考方法は、学問において極めて重要な基本的な思考方法なのであるが、高校までの授業では、ヘーゲルの弁証法くらいしか弁証法を学ぶ機会がなかったような気がする。思想ではなく思考方法の基本として有用なので、より多くの人に学ぶ機会があることが望ましい。
なお、法的判断過程を説明する場合に、しばしば「論証」という用語が用いられることが多いが、アリストテレスのオルガノンを翻訳した際の用語の区別に合わせれば、「弁証」という用語の方が適切であろう。
社会科学の分野(法学、経済学、会計学など)は、社会において妥当と考えられている価値判断的観点から導かれた基本的な前提(言語、法、貨幣などが社会的実体として存在するという観念を含む。)を基に発展しているが、新たに仮説を提唱する場合に、その学問分野の基本的な前提(公理)と矛盾しないかどうかは、まずもって検証すべきものである。その学問分野の基本的な前提と矛盾しないものは内的整合性があるといえ、その学問分野の体系に位置付けることができる。
それゆえ、新たな仮説を提唱するには、その学問分野の基本的な前提と既存の体系を理解し、新たな仮説の内的整合性とその体系上の位置付けを検証が必要となる。
法律学(司法学、法解釈学)の目標仮説は、法的説得の有効性を高めることにあると思われるが、法的説得、すなわち、事実に条文を適用することができ、個別具体的な事実に一般的な規範である条文が適用されると法律効果が発生するということを説得的に説明するには、①法的三段論法と②問題提起への応答の2つが基本原理となると考えられる。
そのうち、①法的三段論法は、一般的には、大前提(規範)、小前提(事実)、結論と説明されることが多いと思われるが、(民事)裁判の場で考える場合には、主張立証責任に基づく法律効果単位での、大前提(裁判規範)、小前提(主要事実の認定)、結論(法律効果)が基本となる。
ここで、条文の意味するところの裁判規範の内容を明らかにするのが、法律学の中でも法解釈学といわれる分野である。法律の条文が、裁判規範としてそのまま使えれば法解釈の必要はないが、そもそも文言は記号であり、本質的に恣意的なものである上、法律の条文は人が作成するものであり、曖昧だったり、相互に矛盾したり、抜けがあったりすることがある。そこで、意味内容を明確したり、条文同士の優先関係を明らかにしたり、抜けがある部分を解釈で補充したりする。これらは、内的整合性に反しない解釈が基本となる。
他方、②問題提起への応答の観点からは、法体系における内的整合性をもって説明すれば解釈として足りるのではなく、当事者からの問題提起に対して応答するための解釈(説明)も必要である。法令解釈の内的整合性の検討は法学者が、問題提起への応答は法律実務家が行うことが多いと思われるが、役割が固定されているわけではなく、また、相互に影響を与えているものと思われる。
法的三段論法について結論を判決(請求の認容又は棄却)と考える法律家も多いが、結論を判決(請求の認容又は棄却)と考えると、そもそも法的三段論法では完結しない。
法的三段論法は、そもそも事実に法律の条文が適用できるかを論理的説得として判定する手法であり、結論はその事実にその条文が適用できるかどうかが基本であり、条文を適用できる場合にはどのような法律効果が発生するかが決まっている場合には、結論が「条文の適用」=「法律効果の発生」(「条文の不適用」=「法律効果の不発生」)となるものである。
上記が基本となるが、それは条文が裁判規範(法律要件、法律効果を規定するもの)であるからであり、条文が行為規範(ある人がある条件ですべき行為、してはならない行為を規定するもの)であれば、その行為をしなかった場合、してしまった場合の法律効果を法の解釈により導き出し、裁判規範に変形する必要がある。
行為規範は義務の体系であり、裁判規範は権利の発生、障害、消滅、阻止の体系であるともいわれるが、義務が対象とする保護法益は、必ずしも権利と裏表となるわけではなく、体系は必ずしも一致しない。
また、条文が準拠規範(法で正しいものと定められた計算方法など)である場合には、正しく準拠している場合との差について、是正しなければならないという法律効果が発生する。
すなわち、条文を適用できるかどうかを基本としつつ、条文どおりに行為をしなかった場合にはどうなるか(行為規範における法的三段論法、法律効果の解釈の必要)、条文どおりに準拠した(適用した)場合の正しい結果は何か(準拠規範における法的三段論法、結果(法律効果)の是正の必要)という条文の適用が必要な場合があり、これらの場合にも法的三段論法はその目的に応じて変形して使われることになる。
法的三段論法と類似の構造を持つものとして、経験則三段論法がある。経験則三段論法は、法的三段論法における小前提(主要事実の認定)の過程でも用いられることが多い。
経験則三段論法は、経験則を大前提とするものであるが、主要事実の認定に当たって、証拠レベルの経験則(証拠→事実)であるか、間接事実(推認)レベルの経験則(ある事実→別の事実)であるかによって小前提と結論は異なる。
証拠レベルの経験則三段論法は、大前提(経験則)、小前提(証拠(積極証拠・間接証拠)、結論(事実の存否)となる。
間接事実(推認)レベルの経験則三段論法は、大前提(経験則)、小前提(間接事実(積極的間接事実・消極的間接事実)、結論(主要事実の存否)となる。
法的三段論法と類似の構造を持つことから、法的三段論法を行っていると誤解されやすいが、法的三段論法の小前提という部分的一過程のものであるから、法的三段論法とは区別しなければならない。大前提である裁判規範を明らかにするための法令解釈と大前提である経験則の合理性を説明することは異なるものである。
単純に区別するとすれば、大前提に法源があれば、法的三段論法であり、法源がないのであれば、全て経験則三段論法ということになる。
なお、法律家の中でも、心証は経験則によって生じるような明確なものではなく、様々な証拠を調べた(知覚した)後に直観(直感?)的に生じるものであると説明する人がある。そのこと自体はおそらく正しいが、法的説得に重要なのは、その直観が正しいかどうかを経験則三段論法の過程として言語化することで自分自身で検証し、また、社会に対して検証の機会を与えることであり、検証に先立ち直観が生じる場合があることを説明することにはあまり意味がない。もっとも、経験則三段論法は、しばしば省略三段論法になりがちである。
法的三段論法の結論は判決ではなく法律効果であること、法的三段論法の小前提(主要事実)の認定には経験則三段論法という別の三段論法があるということが基本的な整理であるが、これらを別の意味の法的三段論法であるとして説明する例もある。
民事訴訟の4段階構造モデルという考え方である。
弘文堂『民事訴訟法』
そこでは、結論が主要事実(次の小前提へ)の三段論法、結論が法律効果(次の小前提へ)の三段論法、結論が判決の三段論法の3回の三段論法で説明している。
表現は異なるが、整理の方向性としては同じである。
現在の民事裁判では、自由心証主義(民事訴訟法247条)が原則であるため、法的三段論法における小前提(主要事実の認定)は裁判官が(法律ではなく)経験則に基づいて行うことが原則となる。しかし、例外的に事実認定に関する規定が法律で定められている場合もある。その場合には、法的三段論法の小前提である事実認定の過程で入れ子構造的に事実認定に関する規定を大前提とする(小)法的三段論法を行うことになる。
(小)法的三段論法は、大前提(評価(計算)方法を含む事実認定に関する法律)、小前提(ある事実、証拠)、結論(別の事実(自由心証ではない法定の心証))となる。
法的三段論法といっても、法律家は暗黙知的に法的判断過程のどの段階で行われているかを文脈で理解しながら同じ用語を別の段階に位置付けて(別の意味で)用いていることが結構あるので、注意が必要となる。
例えば、準拠規範(法で正しいものと定められた計算方法など)などは、法律要件(正しい計算結果とは何かなど)を媒介にして、(小)法的三段論法が必要となることが多い。
結局のところ、法的三段論法と経験則三段論法の区別は、法源の有無である。
法律家の中でも社会的(事実的)評価と法的(規範的)評価をどのように区別しているのかが分からない人が多いように思われる。
社会的(事実的)評価と法的(規範的)評価の区別は、実は単純である。評価方法について法源が存在するかどうかである。ただし、規範的要件や一般条項とされるものについては、評価方法について厳密な定めがなくても、それ自体が法に内在する価値規準によって評価することを判断者(裁判官)に要請するものであるため、規範的要件や一般条項はそれ自体が評価方法の法源となる。
法源がない場合に社会通念として帰納的に認められている評価を探求し、それを現状追認的に認めたものが社会的評価(時価は市場(社会)における評価として定まる。)であり、法源がある場合にその法の趣旨・目的から導かれる内在する価値規準に照らして社会正義としてあるべき評価を提示した理念追求的なものが法的(規範的)評価である。
判例の表現を借りれば、「法的評価をはなれ構成要件的観点を捨象した自然的観察のもとで、…社会的見解上…評価をうける」(最判昭和49年5月29日・刑集第28巻4号168頁)ものが社会的(事実的)評価である。
もちろん、社会的(事実的)評価と法的(規範的)評価は、相互参照されており、相互に影響を与える。そういうこともあり、ある法律要件が社会的(事実的)評価の要件であるか、法的(規範的)評価の要件であるかが容易には分からない場合もある。もっとも、法的三段論法においては、法の解釈において、社会的(事実的)評価の要件であるか、法的(規範的評価)の要件であるかを予め解釈するため、小前提である事実の評価の性質が何であるかは、価値判断の規準の定立である法の解釈により、どこまでが社会的(事実的)評価の問題であり、どこからが法的(規範的)評価の問題であるかを法的(規範的)評価的(価値判断的)に判断しているともいい得る。
なお、社会的(事実的)評価は事実問題であるが、法的(規範的)評価は法律問題となる。
物の測定(重さ、大きさ、速度など)は、基本的に社会的(事実的)評価であり、物理的実体としての観念であれば、経験則についての学術的検証性を基にした明確な共通認識がある。ただし、計量法の法の解釈が問題となることもある。これに対して、社会的実体としての観念である価格の測定(算出方法)は、重さ、大きさ、速度などの測定と違って、明確な経験則についての共通認識がなく、また、法の趣旨・目的から価格を算出する場合もないわけではないから、区別ができていない人が多い。
社会的(事実的)評価と法的(規範的)評価は、アリストテレス以来の真理(事実認識)と倫理(価値判断、行為選択)の区別に由来する思考における明確な区別であるが、法律家でも理解していない人が多い。
このことを理解していない法律家が多いため議論が錯綜しているものとして、因果関係と責任割合の考え方がある。
単純に被害者側にも過失がある不法行為による損害賠償を考えてみると、まず、加害者の行為と被害者の損害に因果関係があることが法律要件になるが、条件関係は事実的因果関係の問題であり、相当因果関係は、価値判断の問題となる。実際には条件関係は認められることが前提として、相当因果関係の検討から始まることが多い。
ここで、相当因果関係についての法の解釈として、「(相当)因果関係があるとは、社会通念上、一般の人がその行為において引き起こされたと考える範囲である」と価値判断として解釈したとしたら、今度は、「社会通念上、一般の人がその行為において引き起こされたと考える範囲」を価値判断ではなく、メタ的な事実認識の問題として検討することになる。
さらに、事実認識の範囲が決まり、その範囲の損害額の測定についての法の解釈について、「損害の額は、社会通念上、一般の人がその因果関係の範囲において生じたと考える損害額である」と価値判断として解釈したとしたら、今度は、「社会通念上、一般の人がその因果関係の範囲において生じたと考える損害額」を価値判断ではなく、事実認識の問題として検討することになる。
このような仮定を経て損害額が決定した場合において、被害者側にも過失がある場合には、価値判断の問題として責任割合を決定し、最終的な損害額が決定する。
これだけを読んでも当たり前であると思うかもしれないが、重要なことは、価値判断の問題と事実認識の問題は、それぞれ順番に切り分けて行う必要があるということである。
このことが理解できないで一度、価値判断の問題をしたら、あとは事実認識の問題だ、などと考えると、意味の分からない説になってしまうのである。
価値判断の問題と事実認識の問題は、切り分けられながら繰り返し行われるものであり、どのような順番でどちらの検討が行われるか、自分が今、行っている検討がどちらの検討であるかを意識することが必要である。
なお、測定(事実認識)と貢献割合(価値判断)の例といえば、反対株主の株式買取請求権の例が挙げられる。買収などによる全体の余剰の増加分は測定(事実認識)の問題であるが、その増加分を元の株主にどれだけ帰属させるべきかという貢献割合は価値判断の問題である。これは、正常価格ではなく、限定価格を貢献割合(寄与割合)を踏まえて求めるのと構造は同じである。
法律家は法的判断の文法を理解し、身に付けているのが当然であると考えていたが、実際には法的判断の文法が身に付いておらず、法的判断の(頻出)構文を知り、身に付けているだけではないかと思われることが結構ある。
法的判断の文法を身に付けるのに特別なことは必要でなく、アリストテレスのオルガノンとニコマコス倫理学、弁論術の内容を身に付ければ、基本的に足りることになると思われる。ローマ法もアリストテレスを思考の基礎としている以上、アリストテレスを学ぶことが基本となる。
法的判断の文法というよりも、思考判断の基本的な文法である。
裁判の目的は法的紛争の解決であり、そもそもその争いが法的紛争でなければ、当事者間に争いがあっても裁判は適切な紛争解決手段ではない。
例えば、そもそも適用すべき法律の条文がない争いは、法的紛争とは言い難い。
もっとも、適用すべき法律の条文があったとしても、法的紛争とはいえない場合もある。典型的には、学術上の争い(ただし、一部の法の解釈についての争いを除く。)がある。
すなわち、法律要件に該当する事実を認定するために、その事実の認定が学術上の争いを判断しなければ認定できない場合には、そもそも事実の認定に社会的評価を用いることが不可能な場合があり(学術上の争いを判断しなければ社会的評価が決定できない場合)、その場合には、法的紛争の名を借りた、学術上の争いということで、法的紛争ではないということになる。
価格の一般的な形成要因は、①効用、②相対的稀少性、③需要の3つであり、これらの相関結合により価格が形成される。
例えば、空気は、①効用、③需要は、生存に不可欠なほど高いが、②相対的稀少性がない場合には無料となる。なお、③需要を有効需要として絶対需要と対比して、いくらならお金を支払ってよいかという経済活動的な需要であると考えれば(あるいは①効用を限界効用として考えれば)、空気には通常、③(有効)需要はそもそもないという考え方もあり得る。
飲料水についても、①効用、③需要は、生存に不可欠なほど高いが、②相対的稀少性が少ない場合には安価となる(水とダイヤモンドの逆説)。
食料についても、①効用、③需要は、生存に不可欠なほど高いが、少なくとも2025年の日本においては、②相対的稀少性が有効需要を超えていない。
一般論としては、①効用、③需要が高いもの(真に必要なもの)は、②相対的稀少性を解消させ、無料又は安価にできるようにするような社会的仕組みを構築することが正しいといえよう。
社会を良くするという観点からは、①効用、③需要が高いものほど、②相対的希少性を解消させ、より多くの人に不足なく効用が行き渡ることが重要なのであるが、自己の利益のために、むしろ②相対的稀少性を人為的に作り出そうとする人も多く見られる。この場合において、特に①効用を価格形成の基礎から切り離し、多くの人が②相対的稀少性を価格形成の基礎としつつ、③(有効)需要を喚起し合うことで価格を上昇させる現象が投機である。
また、①効用が必需品としてではなく、他人との差異を作るための社会文化的な記号として消費されていると見ることができる場合もある(ボードリヤール)。
効用が必需品としてではなく、他人との差異を作るための社会文化的な記号として消費される場合、それはヴェブレンが『有閑階級の理論』で指摘した顕示的消費であるということもできる。
ここで、顕示的消費を促すために、他人との差異を作るための社会文化的な記号(ブランド)の消費を生産者が需要の喚起を行っているとしたら、ガルブレイスが依存効果と指摘したものとなる。
他人との差異を作るための社会文化的な記号の消費は生活水準を向上させるわけではないため、合理的に考えればあまり意味のある仕事ではないが、多くの人間はあまり合理的ではなく、かつ、生存維持に必要でない時間を自分がいかに過ごすべきかを考える人が少ないため、生存維持が確保(パン)されると暇となった時間を費やすためのサーカスが必要となる。
効用と需要を考える場合には、まずは生存に必要な生理的欲求、ホメオスタシス(恒常性)を維持するという効用に必要なものを考えることになる。
そうすると、消費するものとして、まずは空気、水、食料が必要ということになる。居場所としての土地は消費するものではないため、とりあえず除外しておく。次に、ホメオスタシスの維持には睡眠が必要であることから、安全に睡眠を取れる居住スペースも必要になる。また、寒さや暑さ、怪我の予防などもホメオスタシスの維持するためには調整が必要となることから、それらの予防、回復のための衣類も必要ということになる。
概ね衣食住が確保できれば、とりあえず生物としてのホメオスタシスは維持できることになるが、現在においては衣食住は社会(他人との関係)に依存しており、社会(他人との関係)においては衣食住とは別にホメオスタシスを変動させる要因があることから、社会における人間としてのホメオスタシスの維持には、また別の必要が生じることになる。
経済学での需要と供給の関係は、個人経営レベルでの需要と供給の関係においても基本的に成り立つと思われるが、個人経営レベルでは、それ以外のことも考えなければならない場合も多い。
効用を生産する能力があるとしても、有効需要がなければ、あまり意味がない。
効用を生産する能力があり、かつ、有効需要があっても、効用を生産する能力がある人と有効需要を有する人同士が、お互いを認識できなければ、あまり意味がない。
また、効用を生産する能力があり、かつ、有効需要があり、さらに効用を生産する能力がある人と有効需要を有する人同士が、お互いを認識したとしても、効用を生産する能力がある人の生産能力が相対的に希少であり、有効需要を有する人に提供できない場合もある。
個人経営レベルでは、広報を含む需要喚起などから生産供給能力と有効需要が一致することが望ましいのであるが、当然ながら、そのような状態になることはあまりなく、業務の繁閑が一定しないのが常である。
資本主義において、仮に交渉コスト(時間・費用)がゼロであり、かつ、あらゆる不経済(損害)が性質上、事後的に完全に回復可能であれば、規制は必要ないという議論はあり得る。しかし、そのような仮定は、空想上の仮定であり、交渉コスト(事後的な訴訟コストを含む。)が損失を超えることが多いというのが現実であり、損害の性質も回復不能な損害(身体・生命の損害を含む。)も多いことから、当然に規制は必要である。
特に、契約当事者にとってはお互いの利益を最大化できるが、その契約が契約当事者以外の多くの第三者へ広範かつ軽微な外部不経済をもたらす場合(多くの場合、契約当事者の利益と社会全体の不利益の合算はマイナスとなる。)、第三者が交渉コストをかけて回復するというのは、現実的ではない。そのような場合には、立法により規制することが正当である。
なお、規制が正当であることと、その手段が目的に適合的であることは別論である。
転売という言葉自体は、もともと良い意味も悪い意味もないと思われるが、最近は悪い意味で転売という用語が使われることが多い。
そして、実際にそこで意味するところの転売は悪い意味での転売である。すなわち、供給を行うのではなく、供給の妨害を行うことで、その妨害をやめてもらう費用をせしめることを転売という言葉で正当化していることが多い。
そこにあるのは、製品の市場価格ではなく、製品の市場価格に上乗せした妨害をやめてもらう費用の市場価格である。
供給と供給妨害の区別は、価格や購入した場所、購入量などから明確に区別することができ、供給妨害は規制されることが望ましい。
リスクとリターンは、表裏一体のものであると考えたがる人が多いが、本来的には関係はない。そもそも多くの場合、社会的実体同士の関連性に過ぎず、物理的な関連性はない。そうすると、社会的実体であるリターン(利益)を正当化できるのは、その人が生み出した効用(付加価値)のみである。ただし、リスクとリターンを表裏一体のものであると考えたがる人間が多くなれば、相対的稀少性を強調することで、効用との関係を切り離しつつ、リターンを増やすという価格決定上の戦略を(それが正当といえるかどうかは別として)採ることができる。
リスクとリターンを表裏一体のものと考える不合理な傾向を利用・強化する際たるものは、ギャンブルである。ギャンブルでは、リターンとそれに対応する効用の生産を切り離しつつ、人為的にリスクとリターンを結び付けることができる。目的が不合理であるものについても、目的に適合した合理的手段を考えることはでき、目的に適合した合理的手段を考えることは、それなりに知的能力を要する作業(例えば、確率論を考えることなど)ではあるが、そもそも目的が不適合である以上、知的能力の無駄遣いである。
リターンをお金を儲けることであると考えるのであれば、「お金を儲けること」自体の善悪を問うことはそもそも質問自体が誤っているといえ、効用を生み出す対価としてお金を儲けることは良いこと(正当)であり、効用を生み出していないにもかかわらず、お金を儲けることは悪いこと(不正)ということになる。
理念という目的があり、方針という理念を実現するためのおおまかな方向性があるとしても、実際に理念を実現するには、階層的な戦略が必要となる。
経営戦略を考える場合には、経営レベル、事業レベル、業務レベルといった各階層で区別する場合が多い。
経営レベルでは、ヒト、モノ、カネ、情報の「4大経営資源」をどのように配分するかといったことが問題となる。このうち、モノ、カネについては、貸借対照表で概ね表示される。ヒト、情報については、貸借対照表と損益計算書の関係を基本としつつ、それ以外の様々な情報を含めて推測するしかない。
事業レベルは、ヒト、モノ、カネ、情報をどのように有機的に結合させるかの問題である。ヒト、モノ、カネ、情報を有機的に結合させることで、ヒト、モノ、カネ、情報それ自体とは異なる有機的一体として効用を創出することが可能となる。いわゆる有機的一体として機能する財産としての「営業」(商法16条)である。
業務レベルでは、ヒト、モノ、カネ、情報を部分的に交換したり、部分的に結合方法を変えたりして、効用創出の合理化、効率化を図ることにある。
それぞれの区分には程度問題の部分もあるが、おおまかな区分は上記のようになる。
経済学(効用の最適化)を考えるに当たって、地球上の資源は、少なくとも原子レベルで考えれば、一定の量かつ一定の割合であると考えても、ほとんど問題はない。核融合、核分裂、隕石、人工衛星などの影響は、地球上の全体として見ればわずかなものであると考えられる。
資源が限られているのは事実であるが、原子レベルでは増減はほとんどなく、ただ、その組み合わせや所在などによって、人が享受できる効用が変わり得るということになる。組み合わせや所在を変えるにはエネルギーが必要となるため、資源の組み合わせや所在とエネルギーの利用により、効用を最適化するにはどうすればよいかを考えることになる。
なお、エネルギーについては、太陽光という地球外からのエネルギーに由来するエネルギーを利用することが基本であるが、それをどのような形態で利用できるかは技術次第である。
経済学の目的は効用の最適化である。資源不変の前提(あるいは資源が有限であるとの前提)に立てば、ライオネル・ロビンズによる経済学の定義である「資源配分の問題を解決すること」とほとんど同じになる。
しかし、資本主義の発展は、効用の最適化をしようという目的によるのではなく、資本蓄積それ自体が宗教上の理由と結び付いて自己目的化されたことが原因であるという考え方は著名である。マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をかみ砕けばそのような意味であると思われる。
資本蓄積もその過程で効用を生み出す役割を担うことも多く、その限りにおいては、問題があるわけではない。問題は、資本蓄積の過程で効用を生み出さなくても、ギャンブルや投機によって、文字通りレバレッジを利かせた資本蓄積が可能となっており、それが現代社会において、もっとも効率的・効果的な資本蓄積の手段となってしまっているということである。その際、資本蓄積を正当化する理屈としてリスクとリターンの結合を説明する人が多いが、正当化できる理由になっていない。リスクをかけたことでリターンを獲得できたこと、すなわち神が幸運を授けてくれたこと自体が正当化理由であれば、まさしく宗教である。
アダム・スミスは重商主義批判や貨幣錯覚批判をしたが、名目的な貨幣数量が増えても、その国の効用(国富)が増加しなければ、偶然による効用享受の配分の変更以上の意味がない。
規制の正当性は、単に交渉コストの問題のみならず、効用を生み出さない資本蓄積(ギャンブル、投機など)を禁止するという意味もある。
規範的経済学は、個人の利己的な行動が、資金流動が効用の生産から切り離されることを防ぎ、個人の利己的な行動を、結果として社会の効用の最適化を生み出す原動力にすることに意味がある。
公正な競争(利益配分)に必要な法的規制を3つ挙げるとしたら、恐喝、詐欺、賭博の3つの行為の禁止ということになると思われる。当然ながら現代日本ではいずれも犯罪に当たる行為である。
それでは現代日本で公正な競争(利益配分)が実現できているかといえばそうではない。まず、これらの犯罪が行われたとしても実際には刑罰が科せられていないケースがある。
次に、これが重要なことであるが、公正な競争に必要な法的規制としての恐喝、詐欺、賭博は、現代の日本の刑法解釈上の恐喝、詐欺、賭博よりも、はるかに広い概念である。
例えば、恐喝は、取引の目的外の事情を考慮させようとすることの一切が禁止されるということになる。この取引に応じないと他の取引をやめるといって値下げを「交渉」することも公正な競争との関係では恐喝ということになる。すなわち、恐喝という文言を使っているが、その取引にかかる意思決定が、取引の参加から価格の決定まで、完全な自由意思に基づくとはいえなくなるような何らかの要素を取引相手に提示し、交渉しようとしたら、公正な競争とはいえないということになる。その取引とは別に、不利益な行為をしないこととの抱き合わせ取引一般が、公正な競争との関係では恐喝ということになる。取引外の事情を源泉とする交渉力の行使は禁止対象である。
また、詐欺は、積極的に情報を開示しないだけでなく、自分がその取引に関して持っているあらゆる情報を開示しない限り、その取引相手との関係では詐欺になるということになる。すなわち、その取引によって見込まれる自分側の利益計算を取引相手にも提示し、その取引の利益の配分を相互に認識した上で取引を行わない限り、公正な競争とはいえないということになる。情報が非対称な状態での取引一般を公正な競争との関係では詐欺ということになる。情報収集能力などを源泉とする交渉力の行使も禁止対象である。
最後に賭博であるが、効用を生み出さない財貨の移転一般が賭博となる。投機も公正な競争との関係では賭博である。恐喝の例では、もともとお金を多く持っている人の方がそのお金を用いた別の不利益を示唆することで恐喝になりやすいが、そのお金が効用を生み出した対価としてのお金ですらなく、賭博により得たお金である可能性もあり、恐喝を防ぐという意味もある。賭博は、「射幸心を助長し、勤労の美風を害するばかりでなく、副次的な犯罪を誘発し、さらに国民経済の機能に重大な障害を与えるおそれがあることから、社会の風俗を害する行為である」というのは、まさにそのとおりなのであるが、そのような行為一般が公正な競争との関係では賭博ということになる。
仮に、上記のような公正な競争との関係での恐喝、詐欺、賭博を法的に規制したとしても、刑法での例のとおり、その違反の全てに法的制裁が確実に実行されるというのは無理であり、また、抜け穴を考えることで不正に利益を得ようとする者も生じると思われる。
結局のところ、やや間接的な法的規制(独占禁止法、金融商品取引法、中小受託取引適正化法、各種租税法、各種労働法など)により、公正な競争(利益配分)を目指すということになる。しかし、大本として上記のような恐喝、詐欺、賭博が経済学的な適正な資源配分を実現するための公正な競争(利益配分)を害するということは理解しておくべきであろう。
財政政策も基本的な視点は、資金流動が効用の生産と紐づいているかどうかという視点で考えればよいのであるが、そのような視点が欠如した議論が多い。税制についても同様である。経済の目的は資源配分であるのであるから、税という制度を経済的に正当化できるのは、効率的に用いられていない私人の所有する経済的資源を政府が徴収することで、政府を通じて効率的に利用し、社会により多くの効用を生産できる場合である。
乗数効果の説明では、理論上、政府は資本蓄積を行わないため、税金を徴収し、財政支出をすると乗数効果が高いとされるが、影響があるのは一番初めの資金流動に過ぎず、その後に金銭がどのように流動するかは、支出先による。
いわゆる非課税世帯への給付金は、給付された世帯は貯蓄を行わず、給付金を消費する可能性が高いため、二番目の資金流動が行われる可能性が高いと考えられている。このことが非課税世帯への給付金の財政政策上の正当性を与える。
しかし、非課税世帯の消費行動がどのようなものに消費する傾向があるのか、すなわち、三番目の資金流動が行われるのか、それとも資金流動が行われないのかは問われるべきである。
財政政策の問題は、結局のところ資金流動の問題に尽きる。医療費・介護費が膨大になっても、医療従事者・介護従事者、医療機器企業、医薬品企業などが、国内においてサービス(効用)を提供して、金銭を受け取っているのであれば、財政支出という一番目の資金流動としては問題がない。医療従事者・介護従事者が国内でのサービス提供であり、それらに従業者を割り当てられることによって、外国へサービス(効用)を提供できる労働人口の割り当てが少なくなるというのは、医療費・介護費が大きくなることが問題というわけではなく、金融政策上の別論である。医療・介護は、サービスが国内で行われることが多いと思われるが、国外企業の医療機器・医薬品等を利用することで、金融政策上の不利益が多いということもあり得る。
個人の消費行動が与える波及効果は予測が難しいと思われるが、産業別の需要の増加の経済波及効果については、総務省が統計資料として産業連関表を公表している。
問題は、公共事業、減税、補助金などの財政支出がどのような用途で使われるかである。また、需要を刺激しても、そもそも供給能力が不足している場合には、意味がない。
物価の上昇の問題は、基本的には有効需要と供給能力の問題であり、供給能力は効用の生産能力と同義である。それゆえ、通貨流通量を増やすことで名目的な物価や給料の額(数値)の上昇させることは、本来的には意味がない。それにもかかわらず、「そのことを理解しない人が多いから、名目的な数値が上昇すれば、景気が良くなったと勘違いする人が増え、消費の意欲が上昇し、結果として景気が回復する」という議論を主張する人もいる。
有効需要の増加よりも供給能力の増加が少ないものについては、当然にその物価は上昇する。効用の生産が増加しれなければ、いくら通貨流通量を増やしても名目的な金額が上昇するだけである。
なお、生産能力があるにもかかわらず、流通を妨げることで、人為的に希少性を作出し、利益を得ようとする行為は法により規制されるべきであろう。
経済学を学ばなくても生き方を学べば、結果として経済学を学んだ人よりも、よく経済を理解していることもある。
お金の使い方の参考として堺正章氏
ある株式の売買が、投資であるか、投機であるかについても効用の生産と紐づいているかどうかで単純に区別することができる。一般的にいえば、発行市場における株式売買は投資であり、流通市場による株式売買は多くの場合、投機である。発行市場における株式売買は、効用の生産の端緒となるなど、効用の生産へプラスの影響があることが多いが、流通市場における株式売買は、効用の生産へプラスの影響がないことが多い。ただし、流通市場においても、一定の割合以上の株式の売買を行うことによって、株式会社へ支配力を持ち、効用の生産にプラスの影響を与えることができるのであれば、効用の生産と紐づいているといえ、それは投資ということができる。
オープンイノベーション促進税制は、発行市場と流通市場、あるいは投資と投機の違いとして効用の生産にプラスの影響を与えることができるかという考え方と近いように思える。令和5年度税制改正により流通市場の支配権獲得が対象になったのは、まさにそのような考え方に合致する。
もっとも、その理念は措置法としての特別な税制として設けるというよりも、基本的な税制レベルで効用の生産を促進する税制とすべきであろう。
租税9原則を提唱したワグナーはギャンブル、投機、利子などの不労所得には高い税率を掛け、勤労所得には低い税率を掛けるべきとしたが、日本の現実的では逆になっていることが多い。
家畜化という用語は、ネガティブなイメージで用いられることも多いが、社会化という用語に言い換えれば、社会における協調を促進し、個人では生み出せないような効用を生み出したり、効用の損失の予防や補填が促進されるポジティブなイメージで用いることができる。
社会、法、秩序の起源の学際的な考察では、人間による人間の家畜化(社会化)やその手段などが考察されているが、ネガティブなイメージではなく、社会、法、秩序が保たれることで効用を最適化が促されるというポジティブなイメージで捉えたい。
学際的な考察の参考としてハンノ・ザウアー氏
社会化には教育が必要であると思われるが、生物学のレベルでは一定の刺激、条件において、孤独相から群生相に相変異する場合もある。人間においても、ミラーニューロンが反応し、セロトニンが分泌されることにより、相変異とはいえなくても、人同士で交わるという一定の刺激、条件の影響は相応にあるものと思われる。
水分子一つでは固相、液相、気相の区別はないが、水分子が複数であればそれらの相互関係により区別が必要となる。そもそも、生物という状態も、分子の相互関係により区別された一つの相である。
なお、教育は個人の選択を拡張するためのものであり、個人の選択を制限する教化とは区別される。
実存主義などの個人の内面的な問題は、生理学に基づく生理的欲求と生理的作用の客体化、客観化によって、その観念的な主張としての意味は失われたとみるべきであろう。
心理学についても、その内面的な問題は、生理学に基づいて再構成されるべきものである。
個人の内面的な問題は、それが客体化、客観化されていない限り、いかに表現しようともポエム的な主張に過ぎず、それに共感する人が多数いたとしても、何らかの普遍的な理解の対象になるまでには至らない。そうすると、実存主義や心理学で表現された主張を考えることが、学問の動機にはなり得ても、基礎的な事実認識に欠け、既に学問としての体をなしていない。
すなわち、事実として客観的に認識可能な生命現象から離れて、いくら観念を主張し、表現しても意味はなく、事実として客観的に認識可能な生命現象に即した説明でなければ意味があるとはいえない。
いわゆるポストモダン哲学の中にも、生理学的知見の欠けた実存主義や心理学を基礎としているものが多いような気がするが、それが他人ないし社会との関わりについても考察がある点において、まだ学問の体をなしているものはある。生物的な存在である個人の生理学的な客体化、客観化が可能であったとしても、観念的な存在である社会の客体化、客観化は可能でなく、観念によって説明する余地があるからである。
したがって、他人ないし社会との関わりについての主張は、まだ学問としての体をなしうる。その意味で、ポストモダン哲学は、哲学というよりも現代の社会を対象とした対症療法的な社会学である。
美しいものとは何か?を日本語で考えれば、事実を知覚することにより「見惚れる」、「うっとり」という表現がぴったりである。
意識が現に知覚(特に視覚、聴覚)している事実に奪われ、脳機能として思考が働かなくなるだけでなく、行動も忘れる状態である。
思考が働かないので、主客未分の状態であるとも表現できると思われる。
他方、思考が働かないが、行動できる場合は、美しいものを知覚しているわけではない。
衝動的な行動(反射)や反復練習による運動記憶に基づく行動は、思考しているわけではない。
思考がなく運動記憶に基づく行動に没頭していうことも主客未分の状態であると考えることもあり得る。
いずれにせよ、脳機能や神経機能を客体化することにより、説明することが望ましい。
なお、「美」という漢字は大きな羊であるが、古代中国圏(漢字圏)では遊牧民との交易との関係で大きな羊が善いものであったことによるといわれる。「善」という漢字にも羊が入っているのである。
思考とは、現に知覚している事実に内在する観念(形相)以外の観念を観念連合の作用により想起することである。
現に知覚している事実に内在する観念に関係のある別の観念を想起することもあれば、全く関係のない別の観念を想起することもできる。
ヒュポケイメノン(基に措定されたもの,subject)(中畑正志訳「カテゴリー論」『アリストテレス全集1』14頁)は、思考の基点となる観念(主題)である。
観念連合の作用としては、今まで関係していなかった(連合していなかった)観念同士を新たに組み合わせることで、新しい観念(予想、推測など)を作り出すこともできる。
哲学は思考や認識それ自体を考察の対象とするため、全ての学問の基礎であるといえる。
思考の基本的要素は、事実・観念・記号の3つであり、それらを区別して認識することで思考を行うことができる。事実と観念の間、観念と記号の間の対応関係を考えることが思考の基礎といってよい。なお、事実と事実の間の相互関係を考えることがいわゆる科学であり、観念と観念の間の相互関係を考える代表的なものは数学であり、記号と記号の相互関係を考える代表的なものは言語学であるといえる。
記号と記号の相互関係を意識的又は無意識的に、人為的に又は自然発生的に規律するものが構文や文法である。観念と観念の間の相互関係又は事実と観念の間の相互関係を一定の目的で規律するものが構造やフレームワークである。相互関係の規律は、一定の学問分野を体系づける。法学は、観念と事実の相互関係から観念を実現するための仕組みを学ぶ学問である。
事実とは、本来的には五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)を通じた感性の作用により自然的に知覚され、知覚した本人に固有なものであるが、悟性の作用により観念(及び記号)との対応関係において類型化して整理されることによって他人との間で共有される認識された事実となる。そこでは、観念化された自然的認識だけが事実として共有されるのでなく、観念化された科学的認識や社会的認識も事実として共有され得る。知覚から思考過程を意識せずに事実として認識することは直観であるともいえるが、自然的認識については種族のイドラ(洞窟のイドラ)、科学的認識や社会的認識については市場のイドラ(劇場のイドラ)により、直観が誤っている可能性はある。
観念は、記録とコミュニケーションを目的として、言語等の記号と対応させることになるが、その場合には、観念はコミュニケーション(説明)という目的に必要な部分を抽出、不要な部分を捨象し(例えば、線は長い方だけを抽出し、短い方を捨象する。)、概括的に定義された共有観念(概念)という、より一般性の高いものになり得る。事実と観念の間の対応関係だけでなく、観念と記号の対応関係も厳密的な間主観的な共有は難しく、概括的な共有観念(概念)であると思われる。記号が概念を通じて観念に影響を与えることは、言語ごとに概念や観念が微妙に異なることがあることを想起するのが分かりやすい。
事実と観念の間の対応関係や観念と記号との対応関係を厳密的な意味で間主観的に共有することは無理であり、このことは古代ギリシアにおいても、ゴルギアスが指摘していたことである(「何も存在しない、もし何か存在したとしても、それを認識することはできない、もし認識できたとしても、それを他者に伝えることはできない。」)。また、そもそも記号と観念の対応関係は恣意的である(ソシュールの第一原理)。
もっとも、完全な一致は不可能であっても共通了解のある部分があるからコミュニケーションが成り立つのであり、多くの場合、完全に一致していなくてもより単純であることから共通了解の程度が高いと思われる観念を基に定義された概括的な共有(概念)で問題はない。
法的説得は、記号(言語)と証拠から知覚可能な事実認識を基礎として行われるのであるが、法律の条文の文言(記号)が包摂する意味を大前提とし、証拠を知覚することにより認識可能な過去の事実又はそこから推測(推認)可能な事実を小前提とし、包摂する意味や事実認識に共通了解があり、包摂する意味の類型に事実認識が当てはまることについても共通了解があるから、説得力があるということになる。
法的説得も結局のところ、記号(言語)の共通了解と事実認識の共通了解を検討する作業ということになる。
観念が、また別の観念を想起させることについては、観念連合という概念を用いると理解しやすいと思われる。
観念連合について、株式会社平凡社の『改訂新版 世界大百科事典』(執筆者:杖下 隆英)によれば、「心の対象である観念間を支配する連想的な関連で,任意の観念が自然に他の観念を呼びおこし,心に現前させる種類の結合をいう。」「顕著な代表例は近代イギリス経験論で,」「観念連合に積極的な意義を与えたのはヒュームである。彼は観念間の関係として三つの自然的関係,すなわち,類似,接近,因果を考える。たとえば,友人に類似した肖像画を見れば,心はおのずとその友人を想起するように決定される。また,ヒュームは,伝統的な因果関係に帰せられる必然性を,心がこの自然的関係によって通常因果的とみられる,恒常的に連接された一対象から他の対象へと移行する習慣と,これに基づく心の必然性とによって説明した。」とある。
(『改訂新版 世界大百科事典』では、より詳細な説明があるが、観念連合という概念をヒューム的な意味で用いるため、上記の説明部分のみ引用している。)
言語という記号は、擬音語を基にするものなどもあるが、多くは恣意的に観念と記号を対応(符号)させたものにすぎない。もっとも、観念と記号が自然的にせよ、無意識的にせよ、習慣や学習などにより強く結びつくと、その記号と対応する観念だけでなく、その記号及びその観念を通じて他の観念及び他の記号を想起させることになる。すなわち、観念と他の観念との間にある種の連想的な関連が生じる。そのような相互関係を意識的に厳密に考える代表例は数学であるが、日常生活においては、むしろ無意識で自然発生的なあいまいな連想的な関連に基づいて思考(連想による推測、予測など)をすることが通常である。
観念連合、特に記号を媒介とした観念連合は、習慣や学習などにより各個人に無意識的に構築される固有なものであるが、人間の認識に性質に共通する部分があることを前提として、共通の習慣、学習、経験などによって、部分的に共有可能な観念連合が生じることもある。
他人に対する説明を一般化すれば、共有可能な観念連合を他人の中に構築することであり、状態遷移コミュニケーションとなる。
観念連合を意識すると観念と他の観念との間にある、ある種の連想的な連関がどのように生じたか、観念同士の連合関係を省察的な分析をすることが容易になると思われる。そして、観念連合の連関発生の反省を習慣化することによって、観念を明確化できるとともに、観念連合の連関観念自体も考察することができるようになる。
記号同士を関連付ける記号連合の構築は、コンピュータの機械学習の基本でもある。ただし、コンピュータは、観念同士を関連付ける観念連合の学習を行うことはできず、また、因果による記号連合も行うことはできない。コンピュータが機械学習で行うのは、類似、近接の記号連合の関係性のルールを学習することである。時間を認識することは、人間のアプリオリな認識枠組みではあるが、コンピュータは、時間の認識枠組みを有していない。時間を測ることができるということと時間の経過による因果の観念連合を構築できることは別物である。
時間と空間が人間のアプリオリな認識枠組みとされ、ある時間において、空間の一部を占めるものは実体がある(有体)と認識され、事実として認識される。
したがって、人工知能が発達した時代において、人間が考えるべきは、記号と観念との間の関係やある時間において空間を占めるもの(事実)であるかや因果についての観念が中心となる。
現在では社会科学系の学問においても事象を数値化、数式化をして説明が行われることが多いが、その数値化、数式化が現実の統計として裏付けが成り立つものなのか、数値化、数式化が単なる説明の便宜としての比喩であるのかは区別しなければならない。
例えば、法律学で事実認定における心証の高度の蓋然性を80%や90%などと説明することがあるが、これは多くの場合、現実の統計の裏付けがあるものではなく、比喩であることが多い。経済学における数値化、数式化も多くの場合、説明の便宜としての比喩であり、その数値化、数式化の対応関係は恣意的であり、現実の事実との対応関係が裏付けられているものではない。数値化の基準となるニュメレール自体が存在せず、あるいはニュメレール自体が可変であることがほとんどである。ゲーム理論は説明としては分かりやすいが、想定される利得、損失の数値化は説明の便宜としての比喩である。ソーンダイクの教育効果の数値化は間接的な指標であり、教育効果そのものではない。そもそも、いわゆるテストの点数を付けるというのは教育効果の間接的な指標としてのものである。なお、間接的な指標と実際の能力、効果との対応関係の適合度合いには違いがあり、能力、効果を測定する目的に適合した良いテストと適合しない悪いテストがあるのは当然である。
現在、数値化、数式化による比喩的な説明が有効になっているのは、多くの人に数学、というよりも電卓に幻想を持っていることがある。電卓はその範囲の多くの場合、正確な(一義的な)答えを出すことができるため、数値や数式は正しいものであるという幻想である。AIの進化、AIによる回答に対する誤った期待も多くの場合、その背後に電卓幻想があると考えられる。
事実、事象と数値化、数式化の対応関係は比喩であることも多く、仮にその対応関係が事実、事象を真に説明するというのであれば、その対応関係の妥当性は常に事実、事象と照らし合わせて検証されなければならないものである。しかしながら、一度、比喩的に数値化、数式化がなされるとその比喩に過ぎない数値や数式が独り歩きすることも多い。断言、反復、感染という群集心理は学問の世界(それが真の意味で学問と呼べるかどうかはともかく、社会においては学問であると考えられている世界)でも同様なのである。心証の高度の蓋然性について、80%や90%といった数字で表されるもの、表されるべきものであると考えるのは数字での比喩を比喩と理解できないことにより生じる誤解である。
ナイトは確率計算可能なリスクと確率計算不可能な不確実性に分けたが、そもそも母集団となる事実、事象自体を事前に予想、想定することができないのであれば、確率計算は成り立たない。予想、想定可能な事象とは別に予想、想定不可能な事象が存在することを認め、予想、想定不可能な事象がどの程度起こるかを統計的に数値化したとしても、現実において大事なことは実際に発生した予想、想定不可能な事象がどのような事象であるかであり、予想、想定不可能な事象であったかどうかではない。
統計により裏付けることが不可能な信念としての主観的確率という数値化、数式化は意味がないことがほとんどである。
法的三段論法の小前提である事実の認定(事実認定)は、証拠から事実を認定するのが基本であるが、知覚した事実と認識した事実は異なる。認識とは、何らかの観点(基準)をもって知覚した事実に包摂される(内在する)何らかの類型的観念としての事実を識別することである。
例えば、ある人の動作を知覚したときに、その人が動作をした意図を踏まえた時間的広がりの中で識別すれば、それは、ある人の何らかの類型的な行為として認識される。そもそも、知覚した対象を人として認識したり、その人の態様の時間的変化を動作として認識するのも無意識的とはいえ、なんらかの観点(基準)がある。その基準は、事実に対応した観念と識別できるかどうかである。
定量的に比較できる識別基準がある場合には、測定とも呼ばれる。長さ、大きさ、重さ、速さといった観念に対する測定方法が明確とされているものもあれば、価値(価格)のように観念に対する測定方法が明確とまではいえないものもある。
事実認定は、過去に存在した(知覚可能であった)事実を推測するとともに、その存在したと推測される事実から認識・測定可能な事実を認定する作業であるといえる。
不正のトライアングルは、ドナルド・クレッシーが提唱したものといわれる。
もっとも、アリストテレスの『弁論術』第1巻第10章「法廷弁論」には、不正(法に反して意図的に他人に害を与えること。)の考察の三視点として、①動機、②不正を行う者の精神状態、③どのような状態にある人に対して不正を行うのか、が挙げられており、②は正当化、③は機会であるとみることもできるように思われる。
不正についての考察は、いつの時代でもあまり変わらないものなのかもしれない。
法律家は取引を契約(意思表示の合致、合意)と同義で考えている人が多いと思われるが、会計士は取引を契約のいずれか一方の履行するという会計事象であると考えている人が多いと思われる。この点については、法的にも会計士の認識の方が妥当である。取引は、物、金銭等の「取」得又は「引」渡しであり、占有(管理支配)の移転を伴う事実行為を基礎とする。契約(法律行為)は、その取引(事実行為)に法的正当性を与えるものであり、法律行為は事実行為そのものではなく、事実行為に法的正当性を与えることに意味がある。契約は取引ではなく取決めである。
契約「に基づく」引渡しであるかが法律要件であり、契約に基づかない単なる事実行為としての引渡しでは、法律効果(国家による法的保護)は発生しないことが原則である。
取引を物の取得と金銭の引渡しに分解するのが、いわゆる複式簿記であるが、いずれか一方が先に履行された場合には、まだ履行していない側は先に履行された対象物の(準)占有を先に取得することになるが、社会規範における衡平の観念として、先に履行した側にも(準)占有が及ぶものが同時に発生したと考えられている。売掛金、買掛金、前払金などは、権利観念以前にも社会通念としての衡平の観念からも導入される。法律の不当利得は、衡平の観念の法的な正当化の根拠規定である。
取引は、二当事者間で行われることが基本である。これは、社会学でいえば、限定交換と説明される。もっとも法律においても、第三者が関わる第三者のための取引というものもある。
他方、社会学における一般交換は、二当事者ではなく社会において、資源が循環する取引であると説明される。
親から子へ、先輩から後輩へ、親からしてもらったことは親に返すのではなく、子に与える、先輩からしてもらったことは先輩に返すのではなく、後輩に与える、というのも構成員が流動する社会における一般交換であるといえるが、それが成り立つには、構成員が流動する開かれた社会においてその仕組み(習慣)が維持されるということが前提となる。
その仕組み(習慣)を変えるのであれば、衡平を正義の原則であると考える限り、清算が必要であろう。
現在においては、交換は一般的に限定交換のことをいうと思われる。他方、一般交換は贈与者、受贈者の二当事者の関係でみれば贈与であり、受贈者が別の人に対しては贈与者となるということが続くことになる。また、同じ二当事者間でも、交換が行われるのが同時でなければ、贈与とまた別の贈与が行われていると見ることもできる。
ここで、贈与と交換はどこまで違うのかという問題がある。現在においては、交換は対価関係が相応であるということが基本となり、対価関係が相応でないと負担付き贈与とみなされる場合もある。
そうすると、現在における贈与と交換の区別は、対価関係が相応という認識が生まれたことが本質的にある。そこには対価関係についての習慣、すなわち、物、サービスの価値を考えるという習慣が生じたことが見て取れる。
物、サービスの価値を考える習慣が存在しなかった場合の贈与又は交換の目的は、自分に余裕のある範囲で助け合える人間関係の構築それ自体が目的であったといえる。
アダム・スミスは、人間の交換性向を主張した。もっとも、交換性向が、本能的なものなのか、経験的なものなのかは分からない。しかし、いずれにせよ、人間は、物・サービスの価値を考えるよりも先に、助け合える人間関係に価値を見出していたということである。
もっとも、等価交換原理が浸透すると、助け合える人間関係に価値を見出すことは後退する。貨幣が等価性を媒介すれば、そこでは、人と人との間の人間関係は希薄であり、相手と交換する物・サービスの価値の方が重視される。
1回限りの関係であることが分かっている場合には、その人との間の人間関係に価値を見出すことは難しい。他方、無限繰り返しゲームであれば、人間関係に価値を見出すということになる。
そこでは、個々の取引における個別の対価関係よりも、継続する人間関係に意味を見出すということになる。
訴訟は、取引相手との関係断絶を意味することも多いため、取引相手との関係の継続を考えるのであれば、交渉(調停、仲裁、和解)を検討することになる。
同時交換であれば債務は問題とならないが、「将来あなたに何か困ったことがあったら助けるから、今困っている私を助けてくれ」という時間的広がりのある将来の約束的人間関係が債務の起源である。
債務の起源は債務の証拠としての貨幣の起源でもある。貨幣は助けた人と助けられた人の二人の間だけでなく社会という約束的人間関係が広範に構築されたことの証拠でもある。貨幣は、過去に誰かを助けた証拠であり、貨幣を持っている者が誰かに助けもらった際にその貨幣を渡すことで流通する。過去に誰かを助けた証拠としての貨幣がなくても、貨幣を借りることで先に助けてもらうこともできる。
債務の起源はその表裏一体のものとしての債権の起源でもあり、当事者同士で約束についての争いが生じた場合に中立的な第三者的判断を求める民事裁判の起源でもある。
貨幣以前の債権・財産の管理(記録、証拠)は、メソポタミアではトークンで管理されたが、文字で管理する(文書を記録、証拠とする)ということもあり得る。トークンも文字も約束的人間関係の記号についての取り決めを伴うものであり、約束的人間関係の構築が促進される。
以下は、秋満吉彦『名著の予知能力』(幻冬舎新書)297頁~からのアーヴィス・ジャニス『集団浅慮』におけるキューバ危機についての引用である。
「ジャニスは、この本の中で、ケネディやエクスコムが優れた判断を下すことができた要因として次の点を挙げている。私なりに少しわかりやすくパラフレーズするが、その要因とは「意思決定集団が同質性に偏るのを回避する」「意思決定集団が外部から孤立するのを防ぐ」「忖度を生むようなリーダーシップをふりかざさない」「最終決断するストレスから、意思決定集団を解放する」という四つだ(ジャニスは九つのポイントを挙げているが、最重要と思われる要因を四つにまとめてみた)。「悪魔の代弁者」を入れることで仲良しクラブ的な集団の同一性を回避し、政権に属さないポーカーの達人や商社マンなどを入れることで外側の社会とのつながりを担保し、大統領が会議に参加しないことで忖度が起こらないようにし、意見を一本化しないでよいと指示することで、最終決断するストレスから集団を解放し、短兵急で貧弱な結論にまとめさせないように配慮する。こんな風に丁寧にプロセスを見てみると、エクスコムには実に巧みなメカニズムが働いているということがわかる。」
さすがにキューバ危機ほど重大な意思決定が行われ(、それに関わ)ることは、少ないと考えられるが、重大な意思決定を行ったり、それに関わったりする場面では、参考になる。
自由意志や倫理という概念は難しい概念のように思われるが、「生存に必要な食糧をただ食べるだけでなく、おいしいものを食べたい」という欲求や意思が自分自身の内面的な感覚にあることを自覚できれば、なぜ自由意志や倫理という概念が生じるのかを理解できるものと思われる。
「生存に必要な食糧をただ食べるだけでなく、おいしいものを食べたい」というのは、生存に必要な食糧自体を確保できているとともに、食べた後の味を予想していることが前提となる。生存に必要な食糧しかないのであれば、味がどうであれ、それを食べる以外に選択肢はない。
すなわち、そこには生存が確保された上での、予想という思考の働きがある。また、予想、想定された複数の選択肢の中から選択(判断)するという思考の働きがある。決定論が正しいとしても、予想して選択(判断)しているという自覚があれば、客観的に自由意志が存在するかどうかはともかくとして、それは主観的には自由意志と呼べるものになる。
食糧の例では、おいしいものとなるが、より一般的に生存に必要な時間以外の時間があるのであれば、時間の使い方、すなわち、生き方をどうすべきかについて、予想し、選択(判断)する思考が生じる。そして、おいしいものだけでなく、健康なものを食べたい、健康な生き方をしたい、さらに、一般的に考えて、よりよい生き方は何かを思考することになり、倫理についての思考が生じる。
法律学でいえば、予見可能性、結果回避可能性は、予想、選択(判断)の一形態である。
可能性は、必然性と対比される様相である。
古代ギリシア語における倫理の語源は習慣であるといわれるが、善く生きるには習慣が大事である。
習慣については、4つに区分して考えるとよい。
①個人(自分自身)の習慣を作る。②個人(自分自身)の習慣を見直す。③社会の習慣を見直す。④社会の習慣を作る。
個人(自分自身)の習慣と社会の習慣を区別し、習慣を作るときと見直すときを区別するのである。
①自分自身の習慣を作ろうとするときは、少なくともその時点で自分自身が良いと考える目的の手段を実行することが能力的に可能になるような習慣を作ることになる。人間の能力は急に高まるわけではなく、習慣づけて繰り返すことでしか能力は高くならず、能力が高くなって初めて実行できる手段や見える世界がある。また、個人レベルでは、同じことを繰り返しつつ、何らかの変化や成長が感じられることは、それ自体で人生に満足が感じられると思われる。
②習慣化しようとすることはすぐに見直すべきものではないが、始めの時点では手段が目的に最も適合しているか分からなかったり、成長に伴い、より高次の目的が見つかることもあったりするから、習慣づけられた後に時としてその習慣を見直すことも必要となる。
③自分自身の習慣を見直すことができるようになれば、社会において当然とされている習慣を見直すこともできる。社会において目的とされていること、目的に対する手段とされていることを見直すことができるようになる。
④社会の習慣を見直したことにより、よりよい目的、よりよい手段を見出すことができたら、社会においてより善い習慣を作ること(パラダイムシフト)が究極の目的となる。言語といった自然発生的な習慣もあれば、法により作られた習慣もある。
人間の生物的な能力はおそらく何万年規模ではそれほど変わらないが、個人の生き方はすぐにでも変わるし、社会もほどなく変わることはあり得る。
結局のところ、善く生きるための実践的学問としてのアリストテレスの倫理学と政治学は上記のような発想があるものと思われる。
個人の思考習慣と社会における習慣が一致したものは制度と呼ぶこともできる。
言語によるコミュニケーションの習慣、貨幣による取引習慣、法により財産権が守られるという習慣も言語制度、貨幣制度、法制度と呼ぶことができる。
習慣付けには反復が有用であるが、たとえ習慣になったとしても、時においてその習慣を省察することが大事である。
ル・ボンは『群集心理』において、群集心理の断言、反復、感染による影響を論じたが、習慣として反復する以前の検討も大事であるし、習慣となった後の省察も大事である。
ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)断言・反覆・感染。これが群衆を動かす手口だ
思考には二つの異なったプロセスがあるという考え方(二重過程理論)があり、例えば、カーネマンがそれを直感と推論の二つに分けた。
本来、省察しながら推論として慎重に検討すべき事柄を社会の一時的な習慣や雰囲気による直感で判断してしまっては、誤りが生じる可能性が高い。なぜなら、群集心理を利用しようとする者は、慎重に推論を経ればおかしいと気づくことについて推論を働かせず、直感で判断させるために断言、反復、感染を用いることが多いからである。
経済学では合理的期待形成仮説を提唱、支持する者もいるが、そもそも期待形成は合理性ではなく、基本的に習慣によるものである。明日も同じ言語を同じ意味でコミュニケーションをすることができ、貨幣を交換手段として用いることができる。少しずつ意味や価値が変化するとしても、すぐに大きく変化するわけではないという予想(期待)が多くの人の中にあるということになる。
結局それは習慣的期待の形成、変化についての累積的因果関係を分析しようとする歴史学派ないし制度学派と呼ばれるものとなる。調整としてのレギュラシオン理論も人々の合意(妥協)、制度、慣習の成立、人々の行動の変化と新たな合意(妥協)の循環の過程をみれば、その類似性を見て取れる。より単純化したモデルとしてはSECIモデルにもその類似性を見て取れる。
賃金の下方硬直性や価格硬直性、マークアップ率なども習慣的期待で説明可能である。
J.S.ミルは自然法則に基づく生産と人為規則に基づく分配を区別した。もっとも、それ以前にテュルゴーにおいても、地代と賃金の分配について、単に相続という慣習とそれを制度化した法に基づくものであることを指摘していた。リカードも実質賃金が生活維持の最低賃金に向かう傾向があるという賃金の鉄則にもかかわらず、自然賃金は習慣と慣習によるものであるとした。
価値は習慣により定められているものに過ぎないのと同時に、価値の帰属も習慣により定められているものに過ぎない。所有の帰属も習慣である。
経済においては自由競争が大事であるといわれるが、その目的は大きく分けて2つある。
1つは①市場の均衡による適正な利潤の帰属を決定することであり、もう1つは②自由競争により新結合を促し、人々の生活水準を向上させることである。
独占禁止法は「一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進することを目的とする」ものであるが、「一般消費者の利益を確保」は主に①に係るものであり、「国民経済の民主的で健全な発達」は主に②に係るものである。
①は適正な配分を主とする静学的なものであり、②は生産の進歩の促進を主とする動学的なものである。
もっとも、新結合がなくても独占により企業が利益を得られる場合、新結合を行おうという誘因が少なくなるから、①と②の間に全く関係がないわけではない。
「公正且つ自由な競争を促進し、事業者の創意を発揮させ、事業活動を盛んにし、雇傭及び国民実所得の水準を高め」るというのは、②が主たるものであるといえるが、①を規制しないと企業は新結合がなくても容易に利潤を得られることになり、新結合を行おうとする②の誘因が少なくなると考えられるため、①も規制することになる。
もっとも、①については、純粋に市場による均衡だけでなく、拮抗力によって是正されることもあり得るため、拮抗力を制度化するという規制もあり得る。
地球上の資源(原子)の総量は基本的には、ほぼ不変であるから、社会においては資源を循環させて効用を生じさせることが大事である。貨幣を血液に例えれば、経済の循環となる。医師であったケネーが経済表を発想したのもハーヴェイの血液循環説の影響があるといわれる。
比喩的にいえば、脂肪(財、資源)を蓄えることも急な食糧危機(経済危機)に個人的に対応するためなどに一定程度は必要であるが、脂肪(財、資源)を蓄えるだけになると結局は社会の健康を損なう。
個人の行動が社会に影響を与え、社会の行動が個人に影響を与えるのも循環であるといえる。ミュルダールの累積的因果関係論もある種の社会的循環といい得る。
貨幣の循環(流通)については、フィッシャーの交換方程式PV=MTで表される。
Pは物価、Vは貨幣流通速度、Mは貨幣量、Tは取引量である。
フィッシャーの交換方程式を前提とすれば、M(貨幣量)の増加がP(物価)を増加させるというのがヒュームの貨幣数量説(貨幣の中立性)である。
M(貨幣量)が増加するけれどもP(物価)は(あまり)増加せず、V(貨幣流通速度)が増加し、さらにはT(取引量)も増加させるのであれば景気がよくなるという説明はあるが、V(貨幣流通速度)の停滞が財、サービスの供給不足を原因とするのであれば、いくらM(貨幣量)を増加しても、P(物価)が増加するだけである。
貨幣量を増加させる経済政策は、M(貨幣量)を増加させることで、V(貨幣流通速度)を増加させるような有効需要が刺激され、T(取引量)が増加し、P(物価)が(あまり)増加しない状態において初めて意味がある。反対に貨幣量を減少させる経済政策は、物価には下方硬直性があるものも多いから、V(貨幣流通速度)を減少させ、T(取引量)も減少させる可能性が高い。
真理は有用性にあるという考えはプラグマティズムと呼ばれる。人間に限らず、あらゆる生命は、自分にとって有益なものと有害なものをそれ以外のものから識別する観点から器官を発達させ、知覚できるように進化した(ものが生き残った)というのも一面の真理であると考えられるため、ある一面としてはもっともらしい。
しかし、人間は有益なもの、有害なものを識別することでそれ以外のものも識別するようにできるようになっただけでなく、それ以外のもの同士を識別するようにもなったため、有用かどうかという枠組みだけでは説明できない。
「全ての人間は、生まれつき(自然本性として)、知ることを欲する」ということは、知ること、識別することが有用かどうかだけでは説明できないということになる。
もちろん、人間が知ることを欲することから、有益でも有害でもないもの同士を識別すること自体も知識欲を満足させる上で有用であるという説明もあり得るが、こうなるともはやそういう説明もできるという説明の仕方であるというほかはなく、有用性のもともとの意味からは離れ、全ての知識や行為には何らかの有用性があるということになり、現状肯定を有用性という言葉で根拠付けるだけとなり、説明としては意味をなさない。
自らの快楽を追求することを自由であると考えたり、苦痛から免れることを自由であると考えている人が多いと思われる。功利主義を単純に考える人にもその傾向はある。それは生理的欲求や本能に従っている、というよりも拘束されているのであり、およそ自由な状態にあるとはいえない。また、快楽はそれを過度に充足しようとすると苦痛に転じるとともに、希望する快楽が充足しないことも苦痛に転じる。
それよりも快楽にも苦痛にも煩わされない状態において、それ自体では快楽も苦痛も呼び起こさず、することも、続けることも、やめることも、しないことも、いずれであっても、選ぶ理由がないことを選ぶ時間があること、それこそが自由な状態であるといえる。
条件という概念も多義的であり、何らかの認識、評価、判断の前提となる条件は前提条件ということになる。所与の条件として与件として表現される場合もある。静学的な経済学においては、関税競争について資源、人口、技術、社会組織が固定されていることを与件とすることが多い。
他方、民法の条件は、将来の発生する可能性のある事象が起こった時にどのように行為すべきか(法律効果が発生するか)についての分岐条件である。どのようなことが起こったか、あるいは起こらなかったかによって、予定された行動が分岐する。
多くの場合、文脈で判断可能であるが、ときとして話者と聴き手の認識が異なることがあるため、注意が必要である。
取引は取引当事者相互の効用を増大させるが、その増大した効用がどちらにどれだけ帰属するかは交渉次第ということになる。本来は公正な配分が望ましいが、現実には交渉力が大きな意味を持つ。相場の存在はそれ自体、配分の目安となるため、交渉力に影響を与える。例えば、労働市場では、賃金の相場があり、多くはその相場内で交渉が行われる。
交渉が成立しない場合には、代替としての最善策が必要となる。任意法規は、交渉のコストを減らすとともに、交渉が成立しない場合における代替としての最善策としての意味を持つ。
財務諸表の資産の評価(数値)は、同一性のある資産であっても必ずしも一定ではない。
まず、経営者の資産の運用形態による違いがある。例えば、不動産を販売目的で有するのか、自己利用目的で有するのかによって同じ不動産でも評価(数値)は変わり得る。
次に、経営者の会計方針の選択による違いがある。会計方針によって評価(数値)は変わり得る。異なる会計基準(IFRS、U.S.GAAP、日本基準)でも変わり得る。
さらに、経営者の見積り(予測)の精度によって評価(数値)は変わり得る。見積りは恣意の入る余地が大きいため、見積りの精度については、過年度の見積りについてのバックテストを行うことが重要となる。
「誰も信じていないが、誰もが『誰もが信じている』と信じている」というメタ的な信念である。要するに裸の王様の大人たちである。
ケインズの美人投票の例もメタ的な事実認識であるが、そこでは、真実が何であるかは重要ではなく、大勢の人の心理を予測すること自体が重要となる。
バルーク・レブ、フェン・グー『会計の再生(原題:The End of Accounting)』では、投資家に対する財務(会計)情報の価値関連性の喪失について、過去の統計的事実などを参照した実証的な説明がなされている。
財務報告の目的は意思決定有用性であるが(討議資料『財務会計の概念フレームワーク』)、無形資産、のれん、時価主義(原価主義に比して証拠からの検証性が低い)、見積りといった要素が増えれば、その情報の一意性は減少するとともにシュンペーターが新結合と呼ぶことを目指す企業を対象とした投資(投機)の意思決定をする場合には、過去の会計情報よりも、研究開発、契約(解約)状況などの将来の収益と関連性の高い情報の方が意思決定に有用であるということもあり得る。
もっとも、より本質的なことは、上場企業への投資(投機)の意思決定においては、ケインズが美人投票と称した市場の心理を予測する活動としての投機によるキャピタルゲイン狙いが主になっていることに起因するものと思われる。研究開発、契約(解約)などの情報が収益予測ではなく、市場の心理を予測するための情報として用いられるとしたら、社会の効用の生産(増大)には何ら寄与することなく、正当性を見出すことのできない単なる偶然的な財貨の配分を生じさせるだけである。
以下は桜井久勝『財務会計の重要論点』p1からの引用である。
「財務会計というインフラストラクチャーに期待される役割は、企業が会社法・金融商品取引法・法人税法などの法的な規制を受けつつ、みずからの財務的な業績の測定と報告を通じて、企業と利害関係者の間の良好な関係を確立することにより、企業の成長と経済社会の発展に寄与することであるといえよう。」
会計においては、「企業の成長」も目的であるが、企業の存在意義は「経済社会の発展」により、人間の生活(人生)水準を高めることにあるから、究極的な目的は(経済)「社会の発展」にある。
そして、「社会の発展」においては、「企業と利害関係者の間の良好な関係を確立すること」が手段であると同時に目的にもなり得る。
情報は意思決定有用性にとって大事なのであるが、意思決定有用性以上に大事なのは、情報を適正に開示することによって、相互に信頼関係を構築し、「良好な関係を確立すること」である。社会において大事なのは関係の構築それ自体である。
適正な情報開示が信頼関係の構築にとって重要なことについては、田口聡志『教養の会計学』「第9章 間違う社会」(p143~p155)「3 正確な情報が協力を引き出すー社会的ジレンマとその解決」、「6 社会が壊れてしまわないために大切なこと」なども参考になる。
もともと会計(財務報告)は保守的であり、実証性(検証可能性)を重視していた。例えば、資産を購入した場合の購入価格は領収証などで検証することができることから実証性があるといえる。測定のアプローチとしてはコストアプローチが中心となる原価主義会計である。
他方、会計基準においては会計上の見積りなどを含め時価主義会計へ移行する部分が拡大しているようにみえる。時価の測定の基本はマーケットアプローチである。ただし、その財が、消費ではなく生産に利用される場合には収益の予測に伴うインカムアプローチが基本になっている場合も多い。
会計基準の移行の流れをシンプルにいえば実証から実態への移行ということになる。これは投資家にとって、実証的(検証が容易)な情報よりも実態的(検証は容易ではないが市場価値に近いと考えられている)な情報の方が情報価値が高いと考えられていることによるとともに、実態に関わる情報を有している経営者にその情報価値が高いと考えられているものを作成する責任を負わせるべきであると考えられていることによる。
ただし、会計を過去の結果としての成績として見る見方を変えて、将来への公約、決意表明として見る見方へ移行することがよいのかどうかは、継続企業を前提とした収益、配当への受託責任とその検証性を優先するのか、とにかく投機的な株価増加のための情報有用性を優先するのかという問題をはらんでいる。
ケインズは、経済分析における3つの心理的要因として消費性向、流動性選好性向、収益期待を挙げたが、いずれも単に自分自身の内部の価値判断だけで完結するものではなく、外部の自然環境の変動のみならず他の人の(慣習的)行動を基にした将来の事実予測との結合としての心理である。
したがって、外部の自然環境や言語、法の内容、貨幣を含む社会慣習に変化がなく、あるいは変化があっても予測を変化させるに至らない一定の範囲内に収まることが前提となる。
もっとも、法については、よりよい社会(生活水準の高い社会)にするために社会によりよい慣習を作るためのものであるから、法の内容が社会をよりよくするものであるのであれば、たとえ法の内容がある人の予測の範囲外であっても、法の制定は妨げられるべきではない。ただし、もともとの予測が法規制がないがゆえに不当な利益を得られるという不当な予測ではなく、少なくともその時点では社会に効用を生み出すための正当な投資としての予測であったのであれば、法の制定によって無益化した投資について正当な補償をすべきであろう。
国家の目的は国民の生活をよくすることであるが、そのためには教育や法といった制度によって、社会にとってよりよい習慣を作ることが重要である。国家が国民のためのよりよい社会習慣を作ることができたのであれば、国家は人々からその存在意義がなくなったように見え、鼓腹撃壌の世界となる。
国家がなくても(なければ)鼓腹撃壌の世界になるわけではなく、国家が鼓腹撃壌を目的とし、その政策によって鼓腹撃壌の世界が作られると国家の存在意義がなくなったように見えるというのは全くの別物である。
分業は、業務を組織化できることが前提となる。会社レベル、国レベル、国際レベルでの分業による組織化(グローバル化)である。分業された業務の中には、組織外の人と交換(売買)を通じた新たな人間関係を構築する機会を与えられない者を生じさせる。人間関係を構築する機会の喪失は疎外である。
地代と利子はケネー、テュルゴー、スミス、リカードといった古典的な経済学においても重要な問題であった。ただし、その地代は主として生産と関連付けられていた。移動の自由がない時代にはそのような考察でも問題はない。しかし、移動の自由がある時代においては、土地はまずは人が生活する場所として必要であり、生活のために土地を買う、借りるといったことも必要になることから、生活と生産の2つの側面の相互関係から検討する必要がある。
また、人口密度が高ければ、消費密度も高くなり、需要が大きくなれば、供給が増え、利潤も増加することから、その均衡を見出すことが必要となる。
法的義務の成立と確定の区別がつかない人が多いと思われる(例えば、契約上の義務の成立と確定の区別や納税義務の成立と確定の区別など)。
売買契約は合意によって成立するが、売買の目的物と代金額が合意に含まれることが基本である。しかし、代金額ではなく「代金額の決定方法」が合意の内容に含まれている場合でも売買契約は成立する。
この場合、売買契約の時点で契約上の義務は成立しても、その義務は「代金額の決定方法」によってその義務を確定するということになる。
以上は法律の話であるが、これを会計上、どのように記録するかは別の問題である。直直差額と直先差額の違いは、「代金額の決定方法」の違いであり、代金額の決定方法の違いにより、会計上、どのように仕訳をするのかが異なるということになる。
相手に話を理解してもらうためには自分の話に興味を持ってもらうことが必要であるが、相手が興味を持つ話とは、相手の知識で何らかの予測が可能な話となる。
この点については、落語がなぜ面白いと感じるのかというのと同じである。予測によるドーパミンの発生と新しい知識により生じた予測の修正が容易であることによるドーパミンの発生が報酬となるからである。
教えることを理解してもらうには、まず相手に予測してもらうということと、予測の修正が容易な範囲で教えるということが必要ということになる。
教わる側の予測を補助するためによく用いられることは問題意識を共有すること(問題提起)と論理の前提を共有することである。
いずれも教わる側に理解できるものを提示することが必要となる。
問題意識の提示には、なぜこのような考えが生じたのかという動機を示すことが必要である。世界恐慌の失業という現実を見た人が、その失業問題を解決するためにどのような経済政策が必要かを考えて経済学が発展したのは問題提起の例である。しかし、現在の現実の失業について問題提起をしても、相手が、「自然に任せていても「いずれ」失業問題は解決すると考えられるのであるから経済政策は不要である」と強固に考えている場合にはそもそも問題意識が共有できない。また、論理の前提を共有できない場合もある。
いわゆるリバタリアンは自由に価値の重きを置き、法による規制を極力避けようとする人たちであるとされる。しかし、自由に任せた過程を経て、結果として発生した自生的秩序自体は否定せず、あるいは自由に任せることで発生した自生的秩序こそが正しい秩序であると考えているようにも思われる。
このような考えが生じる背景としては、①国家を運営する人間の理性への不信と②時間軸の欠如の2つがあるものと思われる。
①国家を運営する人間の理性への不信の原因としては、結果として発生する自生的秩序はあらかじめ予測することができないと考えているということである。当然ながら、何らかの立法の際には何が共通の利益であるかを検討し、その共通の利益を達成するにはどのような手段が望ましいかを予測し、シミュレーションして行われる。確かに、立法関係者の予測は代表的な場合を中心とした概要ともいうべき予測であり、詳細については、問題が生じたときに司法で解決せざるを得ない。しかし、多くの場合、代表的な概要としての想定していた場合の範囲内で解決可能であり、国家を運営する人間の理性をそこまで否定する必要はない。
②時間軸の欠如の原因としては、立法を行わなくても、問題が生じたときには、私人間の市場あるいは司法を通じて個別に問題が解決されていき、最終的には自生的秩序が生じるので立法する必要がないという発想がある。しかし、自生的秩序が生じるまでに時間的、経済的費用がかかることは明らかであり、あるいは回復不能な損害も生じ得るといえ、完璧ではなく、概要にすぎないとはいえ、立法により大きく時間的、経済的費用を削減し、損害を回避できるのであれば、立法をしない理由は乏しい。よい立法ほど、時間的、経済的費用を削減し、損害を回避するのであるが、これらが生じる前に立法するとその恩恵に気付くことがなく、また、過去に損害等があってそれを避けるために行われた立法についても、後の時代の人はその恩恵に気付かないことが多い。歴史を学ぶことをせず、過去と現在は異なるから歴史を学ぶ意味がないというのがその言い分である。
歩行者の右側通行は日本では法令上のルールであるが、1段に2人が乗れるエスカレーターの片側をエスカレーター上も歩いて急ぐ人のために空けるというルールは自生的秩序であるといえるかもしれない。東日本と西日本で空ける方が異なるともいわれるのも自生的秩序のゆえである。
なお、安全のためにはエスカレーターを歩かないということがいわれており、上記の自生的秩序自体を個人的に推奨するものではない。
経済学は、事実分析としての実証的経済学を基にして、よりよい制度を追求する規範的経済学を主にすべきであると考えるが、実証的経済学における完全な経済的合理性を持った人間(エコン)の仮定はおよそ採り得ず、限定合理性しかない人間(ヒューマン)を前提とした行動経済学に基づく事実分析が基本となる。
結局のところ、資源の分配における生産と消費のバランスを採るためには、生産にも消費にも用いられない資源の無駄としての貯蓄をいかに制度として減らすかというのが、最適な資源配分を目的とする経済学における本質的な問題である。
生産にも消費にも用いられない貯蓄をヒューマンが行う動機の第一としては、生存への不安がある。貯蓄がない場合には、不測の事態において、生産や消費が継続できなくなるということを想定しているということになる。これについては、不測の事態により資源が不足した場合に国家による適切な経済政策や社会保障が行われるということへの信頼があれば、ヒューマンの不安を軽減し、貯蓄を減らすことができるはずである。
生産にも消費にも用いられない貯蓄をヒューマンが行う動機の第二としては、貯蓄(財産)それ自体に価値を見出すという習慣がある。もともとは第一の生存への不安を解消するための手段として貯蓄が習慣化(宗教化)したものに過ぎないと考えられるが、習慣化により生じた価値認識により、貯蓄(財産)の多寡が社会における名声、地位などにも関連付けられているように思われる。バッファとしての多少の貯蓄は必要であるかもしれないが、資源の有効活用の観点からは生産にも消費にも用いられない貯蓄は、基本的には少ない方がよい。これについては、生産にも消費にも用いられない貯蓄について課税を行うということが基本となる。
中世キリスト教においても、生産にも消費にも用いられない貯蓄は悪徳であるとされており、そのことは経験的な実感としては正しいものであったと考えられるが、そのことを行動経済学や制度的経済学の観点から理論化することはできず、貯蓄を増大させるための利潤を正当化する仕組みとしての経済学が中心となったといえる。
見積り(estimation)、比較(comparison)、予測(speculation)は、程度問題ではあるが、それぞれ過去、現在、未来を中心とした評価に使われる。(過去に費やした)費用、(現在の)市場価格、(将来に予想される)収益のいずれを中心とするかである。それぞれコスト・アプローチ、マーケット・アプローチ、インカム・アプローチに対応する。
直観的な思考をシステム1、分析的な思考をシステム2とすれば、システム1は「何らかの」共通点(類似性)がある過去の経験を見つけ出し、その過去の経験と同じことをすれば同じ結果が得られると考えることである。いわゆるheuristic(eureka)として発見した人は正しい推論であるとのアハ体験を伴っているかもしれないが、分析がないため、柳の下のどじょうや守株(株を守りて兎を待つ)といった誤った推論であることも多い。
これに対してシステム2は、見つけ出した過去の経験について、共通点(類似性)が真に「結果を左右する」共通点であるといえるかを分析し、同じ結果を導くために共通する要素を特定しようと考えるものである。
人間が同時に扱える情報は限られるため、同時に扱える情報量の範囲内で検討対象を区分し、段階的に検討することが必要となる。また、結論への影響度に応じて、どのような順番で検討することが効率的かについても検討するということになる。
法的判断においては、要件事実論と事実認定論があるが、これは同時に扱える情報量が限定的であり、また、検討を手順に従って逐次的に行うということを整理したものである。
限定合理性と逐次的意思決定という思考の一般論は、法的判断においても用いられる。
マーシャル的な意味での生活水準の向上に必要なのは競争そのものではなく、安全性を確保した上での生活水準を向上させるための試行錯誤ができる環境である。もっとも、試行錯誤を行うための資源も有限であるから、優秀でない人材よりも優秀な人材に試行錯誤を行わせるために競争があるということになる。
岩井克人『経済学の宇宙』457頁以下にトマス・シェリングの「人は自分とは契約できないーこれは、社会組織や法哲学における衝撃的な原理である」、「人は自分自身に対して法的強制力を持った約束をすることができない。いやこういうべきだろう。…私が私自身に対して決してタバコを吸わないと約束しても、私がタバコを吸おうと思ったら、私はいつでも私をその約束から法律的に解放することができる。…チャールズ・フリード(ハーバード大法学院教授)は、この法的効力を欠いた約束に名前を提供してくれた。それは<誓い(Vow)>である。…誓いにはどんな法的強制力もない。」(Thomas Schelling, "Ethics, law, and the exercise of self-command," in Choice And Consequence, 83-112,Harvard University Press(1984),p.99.)について衝撃を受けたという記述があった。
民法754条では、「夫婦間でした契約は、婚姻中、いつでも、夫婦の一方からこれを取り消すことができる。」という条文があった。これは自己と配偶者が密接的な関係にあることに由来すると考えられるが、令和8年4月1日に削除が施行された。
ハーバート・A・サイモン『意思決定と合理性』(佐々木恒男/吉原正彦訳)147頁では、「当事者主義の訴訟手続は、合理性を強化する別の方法である」、「われわれはその司法制度において、この当事者主義の訴訟手続を最も広範にわたって利用しており、そこでは合理性についての判断基準が最も興味深いものである。最適化よりもむしろ満足化を確実に目指している司法の基本的な判断基準は、明記された訴訟手続が順守されるべきであるということである。」という記述があった。
訴訟は当事者の満足感(納得感)が重要であるため、最適な結論を目指すというよりも当事者の言い分を聞くという手続が重視される。
人間は他人との関係や自分と物との関係、他人と物との関係を含め、関係を通じて世界を認識するのであるが、人の数、物の数が多数あるため、それぞれの関係を個別に記憶するほどの記憶容量はない。そこで、記憶可能な範囲で多数・複雑な関係を一般、単純化するために社会という一般、単純化された関係性の概念を導入することになる。
社会や国家、法、経済などの概念が必要なのも人間が限定合理性しか持たないからであり、完全な合理性のある人間を前提とした経済学は本質的に自己矛盾であるといえる。