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学習

状態遷移コミュニケーション

 コミュニケーションは難しい。もっとも、難しい原因は分かっている。前提となる知識の習得状態が人それぞれ異なっているため、相手が知らない知識を前提として説明しても相手は理解することができず、相手も知っている知識から順を追って説明しなければ、相手は理解できないからである。

 このことを図で表すのは、状態遷移図をイメージするのが分かりやすい。状態遷移図はITの用語であるが、「状態遷移図」で検索すれば、おおまかなイメージを持つことができると思われる。

 おおまかなイメージとしては、人の状態が与えられた刺激(情報)の内容とその刺激(情報)が与えられた順番・タイミングに応じて状態変化(遷移)していくことがイメージできれば十分である。同じ情報を与えたとしても、与えた順番・タイミングによって、その後の状態(理解度)が違うというのが重要な点である。

 もちろん、初期状態は人により異なるし、同じ刺激(情報)を与えても状態がどのように変化(遷移)するかも人による。それゆえ、試行錯誤を経ながら、最終的に理解した状態に到達できるように教える順番を工夫していくことになる。

 状態遷移図の分かりやすい説明としては、アナリティクス沖縄のスーパーマリオの状態遷移図があった。

https://analytics-okinawa.jp/database/2143/

 スーパーマリオ(状態)やファイアマリオ(状態)がスーパーキノコを取っても(刺激)、状態が変化しないということが重要である。

 もっとも、スーパーマリオの状態遷移図が分かりやすいと思うのも、スーパーマリオというTVゲームの知識の習得が事前にあるからである。

相手の状態を理解するための質問

 状態遷移コミュニケーションを行うために第一に大事なことは、相手の状態を理解することである。日常的な会話でも相手の反応を見ながら話す内容を変えることはしばしば行われると思われるが、教育においては、教わる側に理解してもらわなければ、学習効果が期待できないため、教える側が教わる側の状態を理解することは、極めて重要である。

 教えようとしている知識の前提となる知識を知っているか、それを理解しているかなどは、相手の状態を理解するための基本的な確認事項となる。授業ではしばしば教師は学生の知識を確認するような質問をするが、学生の学習効果を上げるためには、どこから教えるべきかを検討するために質問しているのである。決して知らないことを非難するために質問しているわけではない。仮に学生が知らないこと(不勉強)を非難するために質問するような教師がいるとしたら、そのような教師に教わりたくないというのが普通の感覚ではなかろうか。その教師がいかにその分野において優れた知識を持っていたとしても、そのような目的で学生に質問をしているのだとしたら、人に物事を教えることには向かないとしか言いようがない。

偶発的な知識の獲得

 教えてくれる相手がいて、その人が状態遷移コミュニケーションの構造を理解していれば、知識の習得は早いのであるが、往々にしてそのような教えてくれる相手がいないことが多い。また、目指すべき状態に達する以前は、目指すべき状態も抽象的にしか認識しえず、目標も抽象的になりがちである。例えば、賢明な判断力を身に付けたいなどといった抽象的な目標などになってしまう。

 そのような状態においても、情報という刺激を得ることは、状態が良い方に遷移する可能性があり、そのこと自体有意義であると思える。それゆえ、情報という刺激を得、知識を獲得するための遊覧活動(読書、ネット検索など)をすることもある。もっとも、物事を自ら体系立てて整理する能力がない段階においては、中立的かつ確からしい知識を獲得することを優先すべきであろう。

 高校までの学習は、基本的にそのような情報が多い。逆に大学以降の学習は、物事を自ら体系立てて整理する能力がない人が情報を得ると、その人自身にとっても、周りにとっても有害となる情報も多い。当然ながら世の中に出回る情報は、大学以降の学習の内容の方が多いのであるが、知識を獲得するための遊覧を行う際には、自分がどの程度、中立的かつ確からしい知識を得ており、新しい知識が中立的かつ確からしい知識と矛盾しないかを吟味する必要がある。

 なお、内容が中立的かつ確からしい知識と矛盾し、かつ、出所が怪しい情報は、信用しない人の割合の方が圧倒的に割合としては大きいのであるが、割合としては小さいとしても人数としてはそれなりの人数の人が、内容が中立的かつ確からしい知識と矛盾し、かつ、出所が怪しい情報を信用していることが、現代においては可視化されている。いわゆるフィルターバブルに陥っているのはそのような状態であるといえる。フィルターバブルに陥らないためには、内容が中立的かつ確からしい知識を偶発的に得る機会は重要である。

説得

 相手を説得したい場合、一般には、感情的説得(相手の感情に訴えかける)、利益的説得(相手の利益に訴えかける)、論理的説得(相手の理性に訴えかける)の大きく3つの説得に分けられると考えられる。

 交渉などでは、感情的説得や利益的説得が大きな意味を持つことも多いが、感情や利益ではなく、一般的な正しさ、妥当性に基づいて説得したいとなれば、論理的説得を行うということになる。

 論理的説得は、数学の証明のように正しいことを論理的に説明すれば十分なのではなく、相手の疑問、意見を聴いたり、想定しながら、それに答えた上で、相手に納得してもらえるように説明することが必要となる。

 ここでいう論理的であるというのは、正しい前提を組み合わせれば、結論は自動的に導かれるということであるが、相手の疑問、意見は、結論を導くために組み合わせた前提のいずれかについて正しいと思えないという疑問、意見であることが多い。

 そのような場合には、なぜ正しいと思えないのかという理由を確認しつつ、相手も正しいと考えている前提まで遡って、疑問のある前提について、正しいことが共有されている前提から導き出せることを論理的順番に従って、説明することになる。

通念(説得推論の前提)

 共有されている前提は、一般に「通念」と呼ばれる(アリストテレス『弁論術』(戸塚七郎訳)405頁)。「社会通念」(社会における通念)という概念は、判決文にもよく出てくる。

 通念は一般的に正しいとされているものの見方、考え方であるため、説得推論のためには、そこまで前提を遡ることがある。

 全ての人がそれを正しいと信じているとはいえないかもしれないが、8割がた以上の人が信じていると考えられているものは、社会通念と呼んでもよいと思われる。また、法的判断の事実認定においても、8割がた以上の人が、ある具体的事実が、ある抽象的事実類型に該当する(当てはまる)と考えるのであれば、その具体的事実は、その抽象的事実に社会通念上、該当する(当てはまる)といってもよいであろう。

 もっとも、法律家でも社会通念をマジックワードとして、意味も分からず使っているとしか思えない例も結構ある。すなわち、社会通念として存在するかどうかが疑わしいものを「社会通念によればこうである」など説明し、自己に言明に説得力がないにもかかわらず、説得のために存在しない社会通念を持ち出して利用しようとしているのではないかと思われる例である。そのような社会通念の用い方は、典型的な「見せかけの説得推論」(アリストテレス『弁論術』(戸塚七郎訳)286頁)であり、そのようなことを行う法律家は、その能力(法的説得能力)又は人格(誠実に法的説得を行う姿勢)のいずれか又は両方が欠如しているということになる。

類型(カテゴリー)

 類型(カテゴリー)は、古代ギリシア語「カテーゴレイスタイ」が元となる概念であり、カテーゴレイスタイは、「もともと責めを負わせるといった意味で、法廷用語として使用された」(中畑正志訳「カテゴリー論」『アリストテレス全集1』17頁)。なお、同書では、「述定される」と訳されている。「アリストテレスは、人間である。」という文章は、主題(基に措定されたもの)であるアリストテレスを人間の類型に述定(分類し、位置付け)ている。

 そうすると、刑法の構成要件を違法有責行為類型と考えるのは、まさに原義としてのカテゴリーということになる。

計画(目的と手段)

 目的を実現したいとき、計画を立てるということはよくあることである。目的が抽象的な場合には、その達成が認識できないため、目的達成の指標として目標を設定することも多い。計画は目標を実現するための手段とその手段の実行の予定を定めたものである。もっとも、学習の初期段階では、目標を実現するための手段が分からないことも多い。そこで、資格試験の合格などを目標とする場合には、目標を既に実現した合格者に勉強方法を聞くこともある。しかし、状態遷移コミュニケーションの考え方によれば、状態遷移図は人それぞれであり、また、学習の順番とタイミングも重要であるから、合格者に勉強方法を聞いてそのとおりに勉強しても、必ずしも合格するとは限らない。

 法律学を学んだり、教えたりしている経験からすれば、日本語で書かれていたとしても、その意味を理解するには、その学問の暗黙の前提となっている枠組みを理解していなければならず、暗黙の前提を理解できない人は、暗記に頼りがちであると感じる。暗黙の前提となっている枠組みが理解できれば、おそらく暗記することは苦にならない(枠組みに基づいて整理すればよい)のであるが、暗黙の前提となっている枠組みを理解するには、その説明を読むのみならず、ある種の帰納的な経験が必要となる。

 状態遷移図がイメージできない場合には、基本的な説明に基づいて、個別事案の整理することが学習の近道である。

キャッシュ・フロー最適化計画

 計画と目標においては、上記のような学習計画の検討をすることもあるが、ファイナンシャル・プランニングやキャッシュ・フローの最適化計画の検討もある。企業向けの検討もあれば、相続・事業承継を含めた個人のキャッシュ・フローの検討もある。

 減価償却費という概念の「発明」が、収支(収入・支出)計算から、損益(収益・費用(損失))計算へと変化をもたらしたといわれる。もっとも損益計算が中心となったとしても、投資のリスクから解放される部分としての収支(キャッシュ・フロー)の計画は、管理会計の分野で重要な意味を持つ。「すべての費用及び収益は、その支出及び収入に基づいて計上」(企業会計原則第二損益計算書原則)するのである。

 キャッシュ・フロー計算書は過去の結果であるが、キャッシュ・フロー計画は、将来の(一定期間の)予測に基づく計画である。この場合においては、貨幣価値の変動予測を伴わない純粋な収支計画と貨幣価値の変動予測を伴う現在価値・将来価値(事業価値測定)の関係の整理(と予測)が必要となる。

目的、手段、副作用

 目標は目的達成の指標として機能するが、何かを実現したいと考える際には、目的、手段、副作用の3要素で考えることが基本である。

 目的は、各自の価値観や動機による。また、時間の長短、規模の大小などに応じて様々な段階のものが想定できる。価値観や動機が生じた背景を考察する場合もある。

 手段は、目的を実現するために適合していることが必須である。また、効率性が高い手段が望ましく、価値中立的な合理性により検討することになる。

 目的、手段の関係は、よく聞くと思われるが、副作用についての検討がもっとも重要である。ここでいう副作用とは、本人にとっては、時間や金銭などの消費やコストを含むが、他人や社会に対しては、目的の実現以外に生じる影響である。手段は副作用によってもその是非が検討されなければならない。

 外部不経済などの副作用は、法による規制を手段として、その発生を防ぐという目的を実現しようとしているということも、目的、手段、副作用の一つの関係性である。

 目的は手段を正当化せず、目的から見込まれる利益と副作用として見込まれる不利益との比較衡量が手段を正当化する可能性がある。

条文の目的の考察

 法は、副作用としての負の効用(価値基準に従って不当であると判断される内部不経済及び外部不経済)を防ぐことを目的とする手段である。そのための手段として自由を制限することがある。法規範による自由の制限は規制と呼ばれる。

 法令の条文は、制限の手段を定めたものが多く、法令の始めには目的規定が定められていることが多いものの、概括的抽象的であり、条文で定めた規制が、概括的抽象的な目的を達成するために、どのような、より個別具体的な目的を有するかは、自分で考えてみなければ分からないことが多い。

 自分でその条文の目的を考えるための方法は、原則と例外(本文とただし書)を考えることが基本である。原則の制限により目的の多くは達せられるが、例外が必要とされているのは、原則では達せられない場合があったり、制限が過剰・不要な場合があったりするからである。

 当然のことながら、法令の目的規定と整合していることも必要であるが、概括的抽象的な目的規定とは、通常、整合的な説明ができる。

 法体系は、何を優先するか、どちらを優先するかといった価値基準の体系であるとともに、その価値基準を実現するための手段の体系であるということができる。

前提の検証

 知識を教える側も教わる側もその知識が正しいかどうかをどのようにすれば検証できるかを考えることは極めて大事である。

 検証するということは批判するということではない。その前提が正しいかどうかを判断するための手法について自分自身で調べたり、考えたりすることである。Why?を考えるのではなくHow to~?を考えるのである。そして、調べたり、考えたりした検証するための手法に則って前提が正しいかどうかを検証するということである。当然ながら検証するための手法自体も検証の対象となり得る。

 アルヴィン・ゴールドマンは、信念の形成プロセスが信頼できるものではなければならないとする(信頼性主義)が、前提を検証するための手法が分からない場合には、その人の前提(信念)がどのように形成されたのかを事後的に追体験するという作業も一定程度、有効であると思われる。これは、結局のところ、その人の観念連合の構築過程を追体験するということにもなり得る。

 検証することは時間と労力が必要であり、その点をもってしてもフェイクニュースなどは、人の時間と労力を費やさせる極めて外部不経済なものである。フェイクニュースとまではいえなくても、不確かな情報を拡散することで他人に時間と労力の投下を強いることによる外部不経済は、現代ではますます深刻な問題となっている。

検証不能な仮説

 検証を経ていないことを前提とした説明は仮説と呼ばれる場合もあるが、仮説の中には論理的に検証不能な仮説もある。すなわち、仮説が正しいかどうかを判断するための手法が現実に存在しない仮説である。そのような仮説は基本的には無意味であり、前提とすることはできないが、論理的に検証不能であることが直ちに明らかではない場合には、論理的に検証不能であることを検証することに意味がある場合もある。

 検証不能な仮説の典型例としては、アンチノミー(二律背反)がある。

 なお、検証不能な仮説自体を思い付くことは極めて容易であり、その多くは意味がないのであるが、しばしば、自分の思い付いた検証不能な仮説が意味がある仮説であると考えがちな人も多く、自分の思い付きの素晴らしさを認めてもらおうと(他人の目から見てみれば極めて凡庸な)無意味な議論を起こそうとすることがある。

 そもそも仮説というのは、単なる思い付きでは意味がなく、その仮説が前提とする仮定を導入することで、より多くの事柄が、より少ない仮定で説明できるようになるということが必要である(いわゆるオッカムのカミソリ。思考経済の法則)。

他人による検証

 コミュニケーションには前提を共有することが必要であり、前提は検証してある程度の確からしさを備える必要がある。しかし、全ての前提を自分自身だけで検証することは不可能であり、そのようなことをしていては、いつまで経ってもコミュニケーションは始まらない。そこで、他人による検証をもって、自分自身の検証に代えることになる。

 他人の検証を利用する場合には、その検証が実行可能なものであるか、その検証によりどの程度確からしさがあるといえるかなどを検討することになる。実行可能な検証が容易に思いつき、かつ、その検証結果とされるものが予想どおりであれば、誰かが検証を実行(実験)したことがあるだろうとして、疑うことは難しく、かつ、疑う必要はあまりないが、たまに例外もあり得るため注意が必要である。

弁証法的検討

 前提が正しいかどうかを検証し、正しいと判断したとしても、正しいと判断した2つの前提が相互に矛盾する場合もある。それはどちらかの検証が間違っている場合もあれば、両方の検証が間違っている場合もある。それも一つの経験であり、検証の手法自体を検証する契機となり得るが、より望ましいのは、相互に矛盾すると思われた前提同士を矛盾なく統一的に正しいと説明できるより高い次元での前提を発見することである。

 学問は、そのような弁証法的な検証を経て、発展していると考えられる。そうすると、弁証法的な思考方法は、学問において極めて重要な基本的な思考方法なのであるが、高校までの授業では、ヘーゲルの弁証法くらいしか弁証法を学ぶ機会がなかったような気がする。思想ではなく思考方法の基本として有用なので、より多くの人に学ぶ機会があることが望ましい。

 なお、法的判断過程を説明する場合に、しばしば「論証」という用語が用いられることが多いが、アリストテレスのオルガノンを翻訳した際の用語の区別に合わせれば、「弁証」という用語の方が適切であろう。

内的整合性

 社会科学の分野(法学、経済学、会計学など)は、社会において妥当と考えられている基本的な前提を基に発展しているが、新たに仮説を提唱する場合に、その学問分野の基本的な前提と矛盾しないかどうかは、まずもって検証すべきものである。その学問分野の基本的な前提と矛盾しないものは内的整合性があるといえ、その学問分野の体系に位置付けることができる。

 すなわち、新たな仮説を提唱するには、その学問分野の基本的な前提と既存の体系を理解し、新たな仮説の内的整合性とその体系上の位置付けを検証することになる。

法的三段論法

 法律学(法解釈学)の目標仮説は、法的説得の有効性を高めることにあると思われるが、法的説得、すなわち、事実に条文を適用することができ、事実に条文が適用されると法律効果が発生するということを説得的に説明するには、①法的三段論法と②問題提起への応答の2つが基本原理となると考えられる。

 そのうち、①法的三段論法は、一般的には、大前提(規範)、小前提(事実)、結論と説明されることが多いと思われるが、(民事)裁判の場で考える場合には、主張立証責任に基づく法律効果単位での、大前提(裁判規範)、小前提(主要事実の認定)、結論(法律効果)が基本となる。

 ここで、裁判規範を明らかにするのが、法律学の中でも法解釈学といわれる分野である。法律の条文が、裁判規範としてそのまま使えれば法解釈の必要はないが、法律の条文は人が作成するものであり、そもそも文言は記号であり、本質的に恣意的なものであるから、曖昧だったり、相互に矛盾したり、抜けがあったりすることがある。そこで、意味内容を明確したり、条文同士の優先関係を明らかにしたり、抜けがある部分を解釈で補充したりする。これらは、内的整合性に反しない解釈が基本となる。

 他方、②問題提起への応答の観点からは、法体系における内的整合性をもって説明すれば解釈として足りるのではなく、当事者からの問題提起に対して応答するための解釈(説明)も必要である。法令解釈の内的整合性の検討は法学者が、問題提起への応答は法律実務家が行うことが多いと思われるが、役割が固定されているわけではなく、また、相互に影響を与えているものと思われる。

法的三段論法の結論

 法的三段論法について結論を判決(請求の認容又は棄却)と考える法律家も多いが、結論を判決(請求の認容又は棄却)と考えると、そもそも法的三段論法では完結しない。

 法的三段論法は、そもそも事実に法律の条文が適用できるかを論理的説得として判定する手法であり、結論はその事実にその条文が適用できるかどうかが基本であり、条文を適用できる場合にはどのような法律効果が発生するかが決まっている場合には、結論が「条文の適用」=「法律効果の発生」(「条文の不適用」=「法律効果の不発生」)となるものである。

 上記が基本となるが、それは条文が裁判規範(法律要件、法律効果を規定するもの)であるからであり、条文が行為規範(ある人がある条件ですべき行為、してはならない行為を規定するもの)であれば、その行為をしなかった場合、してしまった場合の法律効果を法の解釈により導き出し、裁判規範に変形する必要がある。

 行為規範は義務の体系であり、裁判規範は権利の発生、障害、消滅、阻止の体系であるともいわれるが、義務が対象とする保護法益は、必ずしも権利と裏表となるわけではなく、体系は必ずしも一致しない。

 また、条文が準拠規範(法で正しいものと定められた計算方法など)である場合には、正しく準拠している場合との差について、是正しなければならないという法律効果が発生する。

 すなわち、条文を適用できるかどうかを基本としつつ、条文どおりに行為をしなかった場合にはどうなるか(行為規範における法的三段論法、法律効果の解釈の必要)、条文どおりに準拠した(適用した)場合の正しい結果は何か(準拠規範における法的三段論法、結果(法律効果)の是正の必要)という条文の適用が必要な場合があり、これらの場合にも法的三段論法はその目的に応じて変形して使われることになる。

経験則三段論法

 法的三段論法と類似の構造を持つものとして、経験則三段論法がある。経験則三段論法は、法的三段論法における小前提(主要事実の認定)の過程でも用いられることが多い。

 経験則三段論法は、経験則を大前提とするものであるが、主要事実の認定に当たって、証拠レベルの経験則(証拠→事実)であるか、間接事実(推認)レベルの経験則(ある事実→別の事実)であるかによって小前提と結論は異なる。

 証拠レベルの経験則三段論法は、大前提(経験則)、小前提(証拠(積極証拠・間接証拠)、結論(事実の存否)となる。

 間接事実(推認)レベルの経験則三段論法は、大前提(経験則)、小前提(間接事実(積極的間接事実・消極的間接事実)、結論(主要事実の存否)となる。

 法的三段論法と類似の構造を持つことから、法的三段論法を行っていると誤解されやすいが、法的三段論法の小前提という部分的一過程のものであるから、法的三段論法とは区別しなければならない。大前提である裁判規範を明らかにするための法令解釈と大前提である経験則の合理性を説明することは異なるものである。

 なお、法律家の中でも、心証は経験則によって生じるような明確なものではなく、様々な証拠を調べた(知覚した)後に直観(直感?)的に生じるものであると説明する人がある。そのこと自体はおそらく正しいが、法的説得に重要なのは、その直観が正しいかどうかを経験則三段論法の過程として言語化することで自分自身で検証し、また、社会に対して検証の機会を与えることであり、検証に先立ち直観が生じる場合があることを説明することにはあまり意味がない。もっとも、経験則三段論法は、しばしば省略三段論法になりがちである。

(小)法的三段論法

 現在の民事裁判では、自由心証主義(民事訴訟法247条)が原則であるため、法的三段論法における小前提(主要事実の認定)は裁判官が(法律ではなく)経験則に基づいて行うことが原則となる。しかし、例外的に事実認定に関する規定が法律で定められている場合もある。その場合には、法的三段論法の小前提である事実認定の過程で入れ子構造的に事実認定に関する規定を大前提とする(小)法的三段論法を行うことになる。

 (小)法的三段論法は、大前提(事実認定に関する法律)、小前提(ある事実、証拠)、結論(別の事実(法定心証))となる。

 法的三段論法といっても、法律家は暗黙知的に法的判断過程のどの段階で行われているかを文脈で理解しながら同じ用語を別の段階に位置付けて(別の意味で)用いていることが結構あるので、注意が必要となる。

 例えば、準拠規範(法で正しいものと定められた計算方法など)などは、法律要件(正しい計算結果とは何かなど)を媒介にして、(小)法的三段論法が必要となることが多い。

社会的(事実的)評価と法的(規範的)評価

 法律家の中でも社会的(事実的)評価と法的(規範的)評価をどのように区別しているのかが分からない人が多いように思われる。

 社会的(事実的)評価と法的(規範的)評価の区別は、実は単純である。社会通念として帰納的に認められている評価を探求し、それを現状追認的に認めたものが社会的評価であり、評価に対する社会通念がない場合や社会通念があってもそれがその法の趣旨・目的から導かれる内在する価値基準に照らして妥当でない場合などに社会正義としてあるべき評価を提示した理念追求的なものが法的(規範的)評価である。

 判例の表現を借りれば、「法的評価をはなれ構成要件的観点を捨象した自然的観察のもとで、…社会的見解上…評価をうける」(最判昭和49年5月29日・刑集第28巻4号168頁)ものが社会的(事実的)評価である。

 もちろん、社会的(事実的)評価と法的(規範的)評価は、相互参照されており、相互に影響を与える。そういうこともあり、ある法律要件が社会的(事実的)評価の要件であるか、法的(規範的)評価の要件であるかが容易には分からない場合もある。もっとも、法的三段論法においては、法の解釈において、社会的(事実的)評価の要件であるか、法的(規範的評価)の要件であるかを予め解釈するため、小前提である事実の評価の性質が何であるかは、価値判断の基準の定立である法の解釈により、どこまでが社会的(事実的)評価の問題であり、どこからが法的(規範的)評価の問題であるかを法的(規範的)評価的(価値判断的)に判断しているともいい得る。

 なお、社会的(事実的)評価は事実問題であるが、法的(規範的)評価は法律問題となる。

 物の測定(重さ、大きさ、速度、価格など)は、基本的に社会的(事実的)評価である。もっとも、価格の測定(算出方法)は、重さ、大きさ、速度などの測定と違って、明確な経験則の共通認識がなく、また、法の趣旨・目的から価格を算出する場合もないわけではないから、区別ができていない人が多い。

測定と割合(責任割合、貢献割合など)

 社会的(事実的)評価と法的(規範的)評価は、アリストテレス以来の真理(事実認識)と倫理(価値判断、行為選択)の区別に由来する思考における明確な区別であるが、法律家でも理解していない人が多い。

 このことを理解していない法律家が多いため議論が錯綜しているものとして、因果関係と責任割合の考え方がある。

 単純に被害者側にも過失がある不法行為による損害賠償を考えてみると、まず、加害者の行為と被害者の損害に因果関係があることが法律要件になるため、因果関係があるものについては、まずは価値判断の問題となる。

 ここで、因果関係についての法の解釈として、「因果関係があるとは、社会通念上、一般の人がその行為において引き起こされたと考える範囲である」と価値判断として解釈したとしたら、今度は、「社会通念上、一般の人がその行為において引き起こされたと考える範囲」を価値判断ではなく、事実認識の問題として検討することになる。

 さらに、事実認識の範囲が決まり、その範囲の損害額の測定についての法の解釈について、「損害の額は、社会通念上、一般の人がその因果関係の範囲において生じたと考える損害額である」と価値判断として解釈したとしたら、今度は、「社会通念上、一般の人がその因果関係の範囲において生じたと考える損害額」を価値判断ではなく、事実認識の問題として検討することになる。

 このような仮定を経て損害額が決定した場合において、被害者側にも過失がある場合には、価値判断の問題として責任割合を決定し、最終的な損害額が決定する。

 これだけを読んでも当たり前であると思うかもしれないが、重要なことは、価値判断の問題と事実認識の問題は、それぞれ順番に切り分けて行う必要があるということである。

 このことが理解できないで一度、価値判断の問題をしたら、あとは事実認識の問題だ、などと考えると、意味の分からない説になってしまうのである。

 価値判断の問題と事実認識の問題は、繰り返し行われるものであり、どのような順番でどちらの検討が行われるか、自分が今、行っている検討がどちらの検討であるかを意識することが必要である。

 なお、測定(事実認識)と貢献割合(価値判断)の例といえば、反対株主の株式買取請求権の例が挙げられる。買収などによる全体の余剰の増加分は測定(事実認識)の問題であるが、その増加分を元の株主にどれだけ帰属させるべきかという貢献割合は価値判断の問題である。これは、正常価格ではなく、限定価格を貢献割合(寄与割合)を踏まえて求めるのと構造は同じである。

法的紛争の解決

 裁判の目的は法的紛争の解決であり、そもそもその争いが法的紛争でなければ、当事者間に争いがあっても裁判は適切な紛争解決手段ではない。

 例えば、そもそも適用すべき法律の条文がない争いは、法的紛争とは言い難い。

 もっとも、適用すべき法律の条文があったとしても、法的紛争とはいえない場合もある。典型的には、学術上の争い(ただし、一部の法の解釈についての争いを除く。)がある。

 すなわち、法律要件に該当する事実を認定するために、その事実の認定が学術上の争いを判断しなければ認定できない場合には、そもそも事実の認定に社会的評価を用いることが不可能な場合があり(学術上の争いを判断しなければ社会的評価が決定できない場合)、その場合には、法的紛争の名を借りた、学術上の争いということで、法的紛争ではないということになる。

価格の形成要因

 価格の一般的な形成要因は、①効用、②相対的稀少性、③有効需要の3つであり、これらの相関結合により価格が形成される。

 例えば、空気は、①効用、③有効需要は、生存に不可欠なほど高いが、②相対的稀少性がない場合には無料となる。なお、有効需要を絶対需要と対比して、いくらならお金を支払ってよいかという経済活動的な需要であると考えれば、③有効需要もないという考え方もあり得る。

 飲料水についても、①効用、③有効需要は、生存に不可欠なほど高いが、②相対的稀少性が少ない場合には安価となる。

 食料についても、①効用、③有効需要は、生存に不可欠なほど高いが、少なくとも2025年の日本においては、②相対的稀少性が有効需要を超えていない。

 一般論としては、①効用、③有効需要が高いもの(真に必要なもの)は、②相対的稀少性を解消させ、無料又は安価にできるようにするような社会的仕組みを構築することが正しいといえよう。

 社会を良くするという観点からは、①効用、③有効需要が高いものほど、②相対的希少性を解消させ、より多くの人に効用が行き渡ることが重要なのであるが、自己の利益のために、むしろ②相対的稀少性を人為的に作り出そうとする人も多く見られる。この場合において、特に①効用を価格形成の基礎から切り離し、多くの人が②相対的稀少性を価格形成の基礎としつつ、③有効需要を喚起し合うことで価格を上昇させる現象が投機である。

個人経営レベルでの需要と供給

 経済学のレベルの需要と供給の関係は、個人経営レベルでの需要と供給の関係においても基本的に成り立つと思われるが、個人経営レベルでは、それ以外のことも考えなければならない場合も多い。

 効用を生産する能力があるとしても、有効需要がなければ、あまり意味がない。

 効用を生産する能力があり、かつ、有効需要があっても、効用を生産する能力がある人と有効需要を有する人同士が、お互いを認識できなければ、あまり意味がない。

 また、効用を生産する能力があり、かつ、有効需要があり、さらに効用を生産する能力がある人と有効需要を有する人同士が、お互いを認識したとしても、効用を生産する能力がある人の生産能力が相対的に希少であり、有効需要を有する人に提供できない場合もある。

 個人経営レベルでは、広報を含む需要喚起などから生産供給能力と有効需要が一致することが望ましいのであるが、当然ながら、そのような状態になることはあまりなく、業務の繁閑が一定しないのが常である。

規制の正当性

 資本主義において、仮に交渉コスト(時間・費用)がゼロであり、かつ、あらゆる不経済(損害)が性質上、事後的に完全に回復可能であれば、規制は必要ないという議論はあり得る。しかし、そのような仮定は、空想上の仮定であり、交渉コスト(事後的な訴訟コストを含む。)が損失を超えることが多いというのが現実であり、損害の性質も回復不能な損害(身体・生命の損害を含む。)も多いことから、当然に規制は必要である。

 特に、契約当事者にとってはお互いの利益を最大化できるが、その契約が契約当事者以外の多くの第三者へ広範かつ軽微な外部不経済をもたらす場合(多くの場合、契約当事者の利益と社会全体の不利益の合算はマイナスとなる。)、第三者が交渉コストをかけて回復するというのは、現実的ではない。そのような場合には、立法により規制することが正当である。

 なお、規制が正当であることと、その手段が目的に適合的であることは別論である。

妨害市場(転売問題)

 転売という言葉自体は、もともと良い意味も悪い意味もないと思われるが、最近は悪い意味で転売という用語が使われることが多い。

 そして、実際にそこで意味するところの転売は悪い意味での転売である。すなわち、供給を行うのではなく、供給の妨害を行うことで、その妨害をやめてもらう費用をせしめることを転売という言葉で正当化していることが多い。

 そこにあるのは、製品の市場価格ではなく、製品の市場価格に上乗せした妨害をやめてもらう費用の市場価格である。

 供給と供給妨害の区別は、価格や購入した場所、購入量などから明確に区別することができ、供給妨害は規制されることが望ましい。

リスクとリターン

 リスクとリターンは、表裏一体のものであると考えたがる人が多いが、本来的には関係はない。リターン(利益)を正当化できるのは、その人が生み出した効用(付加価値)のみである。ただし、リスクとリターンを表裏一体のものであると考えたがる人間が多くなれば、相対的稀少性を強調することで、効用との関係を切り離しつつ、リターンを増やすという価格決定上の戦略を(それが正当といえるかどうかは別として)採ることができる。

 リスクとリターンを表裏一体のものと考える不合理な傾向を利用・強化する際たるものは、ギャンブルである。ギャンブルでは、リターンとそれに対応する効用の生産を切り離しつつ、人為的にリスクとリターンを結び付けることができる。目的が不合理であるものについても、目的に適合した合理的手段を考えることはでき、目的に適合した合理的手段を考えることは、それなりに知的能力を要する作業ではあるが、そもそも目的が不適合である以上、知的能力の無駄遣いである。

 リターンをお金を儲けることであると考えるのであれば、「お金を儲けること」自体の善悪を問うことはそもそも質問自体が誤っているといえ、効用を生み出す対価としてお金を儲けることは良いこと(正当)であり、効用を生み出していないにもかかわらず、お金を儲けることは悪いこと(不正)ということになる。

理念、方針、経営、事業、業務の階層

 理念という目的があり、方針という理念を実現するためのおおまかな方向性があるとしても、実際に理念を実現するには、階層的な戦略が必要となる。

 経営戦略を考える場合には、経営レベル、事業レベル、業務レベルといった各階層で区別する場合が多い。

 経営レベルでは、ヒト、モノ、カネ、情報の「4大経営資源」をどのように配分するかといったことが問題となる。このうち、モノ、カネについては、貸借対照表で概ね表示される。ヒト、情報については、貸借対照表と損益計算書の関係を基本としつつ、それ以外の様々な情報を含めて推測するしかない。

 事業レベルは、ヒト、モノ、カネ、情報をどのように有機的に結合させるかの問題である。ヒト、モノ、カネ、情報を有機的に結合させることで、ヒト、モノ、カネ、情報それ自体とは異なる有機的一体として効用を創出することが可能となる。いわゆる有機的一体として機能する財産としての「営業」(商法16条)である。

 業務レベルでは、ヒト、モノ、カネ、情報を部分的に交換したり、部分的に結合方法を変えたりして、効用創出の合理化、効率化を図ることにある。

 それぞれの区分には程度問題の部分もあるが、おおまかな区分は上記のようになる。

資源不変の前提

 経済学(効用の最適化)を考えるに当たって、地球上の資源は、少なくとも原子レベルで考えれば、一定の量かつ一定の割合であると考えても、ほとんど問題はない。核融合、核分裂、隕石、人工衛星などの影響は、地球上の全体として見ればわずかなものであると考えられる。

 資源が限られているのは事実であるが、原子レベルでは増減はほとんどなく、ただ、その組み合わせや所在などによって、人が享受できる効用が変わり得るということになる。組み合わせや所在を変えるにはエネルギーが必要となるため、資源の組み合わせや所在とエネルギーの利用により、効用を最適化するにはどうすればよいかを考えることになる。

 なお、エネルギーについては、太陽光という地球外からのエネルギーが利用できる場合もある。

効用の最適化

 経済学の目的は効用の最適化である。資源不変の前提(あるいは資源が有限であるとの前提)に立てば、ライオネル・ロビンズによる経済学の定義である「資源配分の問題を解決すること」とほとんど同じになる。

 しかし、資本主義の発展は、効用の最適化をしようという目的によるのではなく、資本蓄積それ自体が宗教上の理由と結び付いて自己目的化されたことが原因であるという考え方は著名である。マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をかみ砕けばそのような意味であると思われる。

 資本蓄積もその過程で効用を生み出す役割を担うことも多く、その限りにおいては、問題があるわけではない。問題は、資本蓄積の過程で効用を生み出さなくても、ギャンブルや投機によって、文字通りレバレッジを利かせた資本蓄積が可能となっており、それが現代社会において、もっとも効率的・効果的な資本蓄積の手段となってしまっているということである。その際、資本蓄積を正当化する理屈としてリスクとリターンの結合を説明する人が多いが、正当化できる理由になっていない。リスクをかけたことでリターンを獲得できたこと、すなわち神が幸運を授けてくれたこと自体が正当化理由であれば、まさしく宗教である。

 アダム・スミスは重商主義批判や貨幣錯覚批判をしたが、名目的な貨幣数量が増えても、その国の効用(国富)が増加しなければ、偶然による効用享受の配分の変更以上の意味がない。

 規制の正当性は、単に交渉コストの問題のみならず、効用を生み出さない資本蓄積(ギャンブル、投機など)を禁止するという意味もある。

 規範的経済学は、個人の利己的な行動が、資金流動が効用の生産から切り離されることを防ぎ、個人の利己的な行動を、結果として社会の効用の最適化を生み出す原動力にすることに意味がある。

財政政策

 財政政策も基本的な視点は、資金流動が効用の生産と紐づいているかどうかという視点で考えればよいのであるが、そのような視点が欠如した議論が多い。税制についても同様である。経済の目的は資源配分であるのであるから、税という制度を経済的に正当化できるのは、効率的に用いられていない私人の所有する経済的資源を政府が徴収することで、政府がより効率的に利用し、社会により多くの効用を生産できる場合である。

 乗数効果の説明では、理論上、政府は資本蓄積を行わないため、税金を徴収し、財政支出をすると乗数効果が高いとされるが、影響があるのは一番初めの資金流動に過ぎず、その後に金銭がどのように流動するかは、支出先による。

 いわゆる非課税世帯への給付金は、給付された世帯は資本蓄積を行わず、給付金を消費する可能性が高いため、二番目の資金流動が行われる可能性が高いと考えられている。このことが非課税世帯への給付金の財政政策上の正当性を与える。

 しかし、非課税世帯の消費行動がどのようなものに消費する傾向があるのか、すなわち、三番目の資金流動が行われるのか、それとも資金流動が行われないのかは問われるべきである。

 財政政策の問題は、結局のところ資金流動の問題に尽きる。医療費・介護費が膨大になっても、医療従事者・介護従事者、医療機器企業、医薬品企業などが、国内においてサービス(効用)を提供して、金銭を受け取っているのであれば、財政支出という一番目の資金流動としては問題がない。医療従事者・介護従事者が国内でのサービス提供であり、それらに従業者を割り当てられることによって、外国へサービス(効用)を提供できる労働人口の割り当てが少なくなるというのは、医療費・介護費が大きくなることが問題というわけではなく、金融政策上の別論である。医療・介護は、サービスが国内で行われることが多いと思われるが、国外企業の医療機器・医薬品等を利用することで、金融政策上の不利益が多いということもあり得る。

経済波及効果

 個人の消費行動が与える波及効果は予測が難しいと思われるが、産業別の需要の増加の経済波及効果については、総務省が統計資料として産業連関表を公表している。 

 問題は、公共事業、減税、補助金などの財政支出がどのような用途で使われるかである。また、需要を刺激しても、そもそも供給能力が不足している場合には、意味がない。

物価の問題

 物価の上昇の問題は、基本的には有効需要と供給能力の問題であり、供給能力は効用の生産能力と同義である。それゆえ、通貨流通量を増やすことで名目的な物価や給料の額(数値)の上昇させることは、本来的には意味がない。それにもかかわらず、「そのことを理解しない人が多いから、名目的な数値が上昇すれば、景気が良くなったと勘違いする人が増え、消費の意欲が上昇し、結果として景気が回復する」という議論を主張する人もいる。

 有効需要の増加よりも供給能力の増加が少ないものについては、当然にその物価は上昇する。効用の生産が増加しれなければ、いくら通貨流通量を増やしても名目的な金額が上昇するだけである。

 なお、生産能力があるにもかかわらず、流通を妨げることで、人為的に希少性を作出し、利益を得ようとする行為は法により規制されるべきであろう。

お金の使い方

 経済学を学ばなくても生き方を学べば、結果として経済学を学んだ人よりも、よく経済を理解していることもある。

 お金の使い方の参考として堺正章氏

https://bunshun.jp/articles/-/77008

発行市場と流通市場

 ある株式の売買が、投資であるか、投機であるかについても効用の生産と紐づいているかどうかで単純に区別することができる。一般的にいえば、発行市場における株式売買は投資であり、流通市場による株式売買は投機である。発行市場における株式売買は、効用の生産の端緒となるなど、効用の生産へプラスの影響があることが多いが、流通市場における株式売買は、効用の生産へプラスの影響がないことが多い。ただし、流通市場においても、一定の割合以上の株式の売買を行うことによって、株式会社へ支配力を持ち、効用の生産にプラスの影響を与えることができるのであれば、効用の生産と紐づいているといえ、それは投資ということができる。

オープンイノベーション促進税制

 オープンイノベーション促進税制は、発行市場と流通市場、あるいは投資と投機の違いとして効用の生産にプラスの影響を与えることができるかという考え方と近いように思える。令和5年度税制改正により流通市場の支配権獲得が対象になったのは、まさにそのような考え方に合致する。

 もっとも、その理念は措置法としての特別な税制として設けるというよりも、基本的な税制レベルで効用の生産を促進する税制とすべきであろう。

社会化

 家畜化という用語は、ネガティブなイメージで用いられることも多いが、社会化という用語に言い換えれば、社会における協調を促進し、個人では生み出せないような効用を生み出したり、効用の損失の予防や補填が促進されるポジティブなイメージで用いることができる。

 社会、法、秩序の起源の学際的な考察では、人間による人間の家畜化(社会化)やその手段などが考察されているが、ネガティブなイメージではなく、社会、法、秩序が保たれることで効用を最適化が促されるというポジティブなイメージで捉えたい。

 学際的な考察の参考としてハンノ・ザウアー氏

https://gendai.media/list/author/HannoSauer

生物的な個人の問題と観念的な社会の問題

 実存主義などの個人の内面的な問題は、生理学に基づく生理的欲求と生理的作用の客体化、客観化によって、その観念的な主張としての意味は失われたとみるべきであろう。

 心理学についても、その内面的な問題は、生理学に基づいて再構成されるべきものである。

 個人の内面的な問題は、それが客体化、客観化されていない限り、いかに表現しようともポエム的な主張に過ぎず、実存主義や心理学で表現された主張を考えることが、学問の動機にはなり得ても、基礎的な事実認識に欠け、既に学問としての体をなしていない。

 すなわち、事実として客観的に認識可能な生命現象から離れて、いくら観念を主張し、表現しても意味はなく、事実として客観的に認識可能な生命現象に即した説明でなければ意味があるとはいえない。

 いわゆるポストモダン哲学の中にも、生理学的知見の欠けた実存主義や心理学を基礎としているものが多いような気がするが、それが他人ないし社会との関わりについても考察がある点において、まだ学問の体をなしているものはある。生物的な存在である個人の生理学的な客体化、客観化が可能であったとしても、観念的な存在である社会の客体化、客観化は可能でなく、観念によって説明する余地があるからである。

 したがって、他人ないし社会との関わりについての主張は、まだ学問としての体をなしうる。

美しいもの

 美しいものとは何か?を日本語で考えれば、事実を知覚することにより「見惚れる」、「うっとり」という表現がぴったりである。

 意識が現に知覚(特に視覚、聴覚)している事実に奪われ、脳機能として思考が働かなくなるだけでなく、行動も忘れる状態である。

 思考が働かないので、主客未分の状態であるとも表現できるであろう。

 他方、思考が働かないが、行動できる場合は、美しいものを知覚しているわけではない。

 衝動的な行動(反射)や反復練習による運動記憶に基づく行動は、思考しているわけではない。

 思考がなく運動記憶に基づく行動に没頭していうことも主客未分の状態であると考えることもあり得る。

 いずれにせよ、脳機能や神経機能を客体化することにより、説明することが望ましい。

思考

 思考とは、現に知覚している事実に内在する観念(形相)以外の観念を観念連合の作用により想起することである。

 現に知覚している事実に内在する観念に関係のある別の観念を想起することもあれば、全く関係のない別の観念を想起することもできる。

 ヒュポケイメノン(基に措定されたもの,subject)(中畑正志訳「カテゴリー論」『アリストテレス全集1』14頁)は、思考の基点となる観念(主題)である。

 観念連合の作用としては、今まで関係していなかった(連合していなかった)観念同士を新たに組み合わせることで、新しい観念(予想、推測など)を作り出すこともできる。

事実・観念・記号

 哲学は思考や認識それ自体を考察の対象とするため、全ての学問の基礎であるといえるが、思考の基本的要素は、事実・観念・記号の3つであり、それらを区別して認識することで思考を行うことができる。事実と観念の間、観念と記号の間の対応関係を考えることが思考の基礎といってよい。なお、事実と事実の間の相互関係を考えることがいわゆる科学であり、観念と観念の間の相互関係を考える代表的なものは数学であり、記号と記号の相互関係を考える代表的なものは言語学であるといえる。

 記号と記号の相互関係を意識的又は無意識的に、人為的に又は自然発生的に規律するものが構文や文法である。観念と観念の間の相互関係又は事実と観念の間の相互関係を一定の目的で規律するものが構造やフレームワークである。相互関係の規律は、一定の学問分野を体系づける。法学は、観念と事実の相互関係から観念を実現するための仕組みを学ぶ学問である。

 事実とは、本来的には五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)を通じた感性の作用により自然的に知覚され、知覚した本人に固有なものであるが、悟性の作用により観念(及び記号)との対応関係において類型化して整理されることによって他人との間で共有される認識された事実となる。そこでは、観念化された自然的認識だけが事実として共有されるのでなく、観念化された科学的認識や社会的認識も事実として共有され得る。知覚から思考過程を意識せずに事実として認識することは直観であるともいえるが、自然的認識については種族のイドラ(洞窟のイドラ)、科学的認識や社会的認識については市場のイドラ(劇場のイドラ)により、直観が誤っている可能性はある。

 観念は、記録とコミュニケーションを目的として、言語等の記号と対応させることになるが、その場合には、観念はコミュニケーション(説明)という目的に必要な部分を抽出した概括的な共有観念(概念)という、より一般性の高いものになり得る。事実と観念の間の対応関係だけでなく、観念と記号の対応関係も厳密的な間主観的な共有は難しく、概括的な共有観念(概念)であると思われる。記号が概念を通じて観念に影響を与えることは、言語ごとに概念や観念が微妙に異なることがあることを想起するのが分かりやすい。

事実・観念・記号の共通了解

 事実と観念の間の対応関係や観念と記号との対応関係を厳密的な意味で間主観的に共有することは無理であり、このことは古代ギリシアにおいても、ゴルギアスが指摘していたことである。また、そもそも記号と観念の対応関係は恣意的である(ソシュールの第一原理)。

 もっとも、完全な一致は不可能であっても共通了解のある部分があるからコミュニケーションが成り立つのであり、多くの場合、完全に一致していなくても概括的な共有(概念)で問題はない。

 法的説得は、記号(言語)と証拠から知覚可能な事実認識を基礎として行われるのであるが、法律の条文の文言(記号)が包摂する意味を大前提とし、証拠を知覚することにより認識可能な過去の事実又はそこから推測(推認)可能な事実を小前提とし、包摂する意味や事実認識に共通了解があり、包摂する意味の類型に事実認識が当てはまることについても共通了解があるから、説得力があるということになる。

 法的説得も結局のところ、記号(言語)の共通了解と事実認識の共通了解を検討する作業ということになる。

観念連合

 観念が、また別の観念を想起させることについては、観念連合という概念を用いると理解しやすいと思われる。

 観念連合について、株式会社平凡社の『改訂新版 世界大百科事典』(執筆者:杖下 隆英)によれば、「心の対象である観念間を支配する連想的な関連で,任意の観念が自然に他の観念を呼びおこし,心に現前させる種類の結合をいう。」「顕著な代表例は近代イギリス経験論で,」「観念連合に積極的な意義を与えたのはヒュームである。彼は観念間の関係として三つの自然的関係,すなわち,類似,接近,因果を考える。たとえば,友人に類似した肖像画を見れば,心はおのずとその友人を想起するように決定される。また,ヒュームは,伝統的な因果関係に帰せられる必然性を,心がこの自然的関係によって通常因果的とみられる,恒常的に連接された一対象から他の対象へと移行する習慣と,これに基づく心の必然性とによって説明した。」とある。

(『改訂新版 世界大百科事典』では、より詳細な説明があるが、観念連合という概念をヒューム的な意味で用いるため、上記の説明部分のみ引用している。)

 言語という記号は、擬音語を基にするものなどもあるが、多くは恣意的に観念と記号を対応(符号)させたものにすぎない。もっとも、観念と記号が自然的にせよ、無意識的にせよ、習慣や学習などにより強く結びつくと、その記号と対応する観念だけでなく、その記号及びその観念を通じて他の観念及び他の記号を想起させることになる。すなわち、観念と他の観念との間にある種の連想的な関連が生じる。そのような相互関係を意識的に厳密に考える代表例は数学であるが、日常生活においては、むしろ無意識で自然発生的なあいまいな連想的な関連に基づいて思考(連想による推測、予測など)をすることが通常である。

 観念連合、特に記号を媒介とした観念連合は、習慣や学習などにより各個人に無意識的に構築される固有なものであるが、人間の認識に性質に共通する部分があることを前提として、共通の習慣、学習、経験などによって、部分的に共有可能な観念連合が生じることもある。

 他人に対する説明を一般化すれば、共有可能な観念連合を他人の中に構築することであり、状態遷移コミュニケーションとなる。

機械学習と記号連合

 記号を媒介とした観念連合(記号連合)は、コンピュータの機械学習の基本でもある。ただし、コンピュータは、観念連合自体の学習を行うことはできず、また、因果による記号連合も行うことはできない。コンピュータが機械学習で行うのは、類似、近接の記号連合の関係性のルールを学習することである。時間を認識することは、人間のアプリオリな認識枠組みではあるが、コンピュータは、時間の認識枠組みを有していない。時間を測ることができるということと時間の経過による因果の観念連合を構築できることは別物である。

 時間と空間が人間のアプリオリな認識枠組みとされ、ある時間において、空間の一部を占めるものは実体がある(有体)と認識され、事実として認識される。

 したがって、人工知能が発達した時代において、人間が考えるべきは、記号と観念との間の関係やある時間において空間を占めるもの(事実)であるかや因果についての観念が中心となる。

事実認定

 法的三段論法の小前提である事実の認定(事実認定)は、証拠から事実を認定するのが基本であるが、知覚した事実と認識した事実は異なる。認識とは、何らかの基準をもって知覚した事実に包摂される(内在する)何らかの類型的観念としての事実を識別することである。

 例えば、ある人の動作を知覚したときに、その人が動作をした意図を踏まえた時間的広がりの中で識別すれば、それは、ある人の何らかの類型的な行為として認識される。そもそも、知覚した対象を人として認識したり、その人の態様の時間的変化を動作として認識するのも無意識的とはいえ、なんらかの基準がある。その基準は、事実に対応した観念と識別できるかどうかである。

 定量的な識別基準がある場合には、測定とも呼ばれる。長さ、大きさ、重さ、速さといった観念に対する測定方法が明確とされているものもあれば、価値(価格)のように観念に対する測定方法が明確とまではいえないものもある。

 事実認定は、過去に存在した(知覚可能であった)事実を推測するとともに、その存在したと推測される事実から認識・測定可能な事実を認定する作業であるといえる。

不正のトライアングルとアリストテレスの『弁論術』

 不正のトライアングルは、ドナルド・クレッシーが提唱したものといわれる。

 もっとも、アリストテレスの『弁論術』第1巻第10章「法廷弁論」には、不正(法に反して意図的に他人に害を与えること。)の考察の三視点として、①動機、②不正を行う者の精神状態、③どのような状態にある人に対して不正を行うのか、が挙げられており、②は正当化、③は機会であるとみることもできるように思われる。

 不正についての考察は、いつの時代でもあまり変わらないものなのかもしれない。

取引

 法律家は取引を契約(意思表示の合致、合意)と同義で考えている人が多いと思われるが、会計士は取引を契約のいずれか一方の履行だと考えている人が多いと思われる。この点については、法的にも会計士の認識の方が妥当である。取引は、物、金銭等の「取」得又は「引」渡しであり、占有(管理支配)の移転を伴う事実行為を基礎とする。契約(法律行為)は、その取引(事実行為)に法的正当性を与えるものであり、法律行為は事実行為そのものではなく、事実行為に法的正当性を与えることに意味がある。契約「に基づく」引渡しであるかが法律要件であり、契約に基づかない単なる事実行為としての引渡しでは、法律効果は発生しないことが原則である。

 取引を物の取得と金銭の引渡しに分解するのが、いわゆる複式簿記であるが、いずれか一方が先に履行された場合には、まだ履行していない側は先に履行された対象物の(準)占有を先に取得することになるが、社会規範における衡平の観念として、先に履行した側にも(準)占有が及ぶものが同時に発生したと考えられている。売掛金、買掛金、前払金などは、権利観念以前にも社会通念としての衡平の観念からも導入される。法律の不当利得は、衡平の観念の法的な正当化の根拠規定である。

限定交換と一般交換

 取引は、二当事者間で行われることが基本である。これは、社会学でいえば、限定交換と説明される。もっとも法律においては、第三者のための取引というものもある。

 他方、社会学における一般交換は、二当事者ではなく社会において、資源が循環する取引であると説明される。

 親から子へ、先輩から後輩へ、親からしてもらったことは親に返すのではなく、子に与える、先輩からしてもらったことは先輩に返すのではなく、後輩に与える、というのも構成員が流動する社会における一般交換であるといえるが、それが成り立つには、構成員が流動する開かれた社会においてその仕組みが維持されるということが前提となる。

 その仕組みを変えるのであれば、清算が必要であろう。

集団浅慮

 以下は、秋満吉彦『名著の予知能力』(幻冬舎新書)297頁~からのアーヴィス・ジャニス『集団浅慮』におけるキューバ危機についての引用である。

「ジャニスは、この本の中で、ケネディやエクスコムが優れた判断を下すことができた要因として次の点を挙げている。私なりに少しわかりやすくパラフレーズするが、その要因とは「意思決定集団が同質性に偏るのを回避する」「意思決定集団が外部から孤立するのを防ぐ」「忖度を生むようなリーダーシップをふりかざさない」「最終決断するストレスから、意思決定集団を解放する」という四つだ(ジャニスは九つのポイントを挙げているが、最重要と思われる要因を四つにまとめてみた)。「悪魔の代弁者」を入れることで仲良しクラブ的な集団の同一性を回避し、政権に属さないポーカーの達人や商社マンなどを入れることで外側の社会とのつながりを担保し、大統領が会議に参加しないことで忖度が起こらないようにし、意見を一本化しないでよいと指示することで、最終決断するストレスから集団を解放し、短兵急で貧弱な結論にまとめさせないように配慮する。こんな風に丁寧にプロセスを見てみると、エクスコムには実に巧みなメカニズムが働いているということがわかる。」

 さすがにキューバ危機ほど重大な意思決定が行われ(、それに関わ)ることは、少ないと考えられるが、重大な意思決定を行ったり、それに関わったりする場面では、参考になる。

自由意志と倫理

 自由意志や倫理という概念は難しい概念のように思われるが、「生存に必要な食糧をただ食べるだけでなく、おいしいものを食べたい」という欲求や意思が自分自身の内面的な感覚にあることを自覚できれば、なぜ自由意志や倫理という概念が生じるのかを理解できるものと思われる。

 「生存に必要な食糧をただ食べるだけでなく、おいしいものを食べたい」というのは、生存に必要な食糧自体を確保できているとともに、食べた後の味を予想していることが前提となる。生存に必要な食糧しかないのであれば、味がどうであれ、それを食べる以外に選択肢はない。

 すなわち、そこには生存が確保された上での、予想という思考の働きがある。また、選択(判断)という思考の働きがある。決定論が正しいとしても、予想して選択(判断)しているという自覚があれば、客観的に自由意志が存在するかどうかはともかくとして、それは主観的には自由意志と呼べるものになる。

 食糧の例では、おいしいものとなるが、生存に必要な時間以外の時間があるのであれば、時間の使い方、すなわち、生き方をどうすべきかについて、予想し、選択(判断)する思考が生じる。そして、おいしいものだけでなく、健康なものを食べたい、健康な生き方をしたい、それよりも一般的に考えて、よりよい生き方は何かを思考することになり、倫理についての思考が生じる。

 法律学でいえば、予見可能性、結果回避可能性は、予想、選択(判断)の一形態である。

 可能性は、必然性と対比される様相である。

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